浮浪雲~終わりに

この旅行記を書き終えるのに1年が経ってしまいました。

書こうと思えばいつでも書くことができたのですが、筆が進まずにいつの間にか1年が過ぎました。

 

友人から「いつ次の旅行記がアップロードされるの」っと言われ、こんな不定期な旅行記を見てくれている人が

いてくれるんだなっと思い嬉しく思ったこともありました。

 

もしも、楽しみにしていてくれた方が他にもいらっしゃったら大変申し訳ない事をしてしましました。

僕も改めてこの旅行記を読み直してみて良くも悪くもいい経験であったし、今ではいい思い出となっています。

 

但し、浮浪雲~中国(一)でも書きましたが、この旅行記に書かれている全てのことは、僕自身の個人的な主観や

価値観からくる物事の良し悪しの判断であるので、この旅行記を読んでいる方で、もし中国に行ったことのある人が

僕と同じ感想を抱くかと思うと、それは分かりません。旅ではその人が旅先で出会った人や経験によって

そのイメージは激変するからです。

 

さらに、この旅行記はノンフィクションで書いています。

本当は自分の心の中にしまっておきたいことや恥ずかしいこと、それから現地で受けた衝撃的な事実、

または、涙が出るぐらい素晴らしい感動などを、読んでいただいている方にそのまま伝えたかったので、

あえて、事実を忠実に表現しています。

 

もしも、それを作り話で書いてしまうと、事実とつじつまが合わなくなってしまうし、読んでいただいている方に

旅の臨場感が伝わらないと思ったので勝手にそうさせていただきました。

 

読んでいて面白いと思われる方もいれば、不快な思いをされた方もいらっしゃると思います。

もしも、不快に思われた方がいらっしゃったら僕は素直に謝ります。大変申し訳ありませんでした。

 

この旅行記を読んで中国に興味を持った方や行ってみたいと思った方がいらっしゃったら申し出てください。

経験上知りえたことは包み隠さずお教えいたします。

 

また、中国に行った経験がある方やこれから行く予定の方は帰国後に感想を是非聞かせてください。

 

最後にもう一度、旅行記、浮浪雲を書き終わるまでに1年を要したことにお詫び申し上げます。

勝手を言って申し訳ありませんが、今後も不定期ながら旅行記を書く機会があると思いますが、

そのときもどうぞよろしくお願いいたします。

浮浪雲~中国 (八)

 上海 2009.9.19-2009.9.22

杭州から電車に乗り1時間少々で定刻に上海に到着した。

中国での電車は遅れると聞いていたが全く遅れることはなく、なんとなく拍子抜けのような感じがした。

上海の街は既に動き始めていて人でごった返していた。

 

上海駅から地下鉄に乗りユースホステルのある人民広場まで出た。

今回の宿は杭州のユースホステルでインターネットを通じて予約をしていたのだが、

いざ、人民広場に降り立ちユースホステルを探し出したのだが見つからなかった。

 

全くの油断だった。上海にしばらくいたため地図に印をつけておけば簡単に分かるだろうと高をくくっていた。

しかも、予約した時に地球の歩き方に記載されている地図に印を付けただけで住所や電話番号を控えておくのを

忘れていた。

 

分かっているのは人民広場ユースホステルという名前のみ。

 

一応、この辺だと思われる場所をうろついたのだが、そんなことをしても見つかる訳は無く、途方にくれて人民広場の

入り口のベンチに座っていると1組の男女カップルが話しかけてきた。

 

大きいザックを背負ってベンチに座って困り果てている僕を見かねたのか。

 

心配そうな顔をして

 

女の子 「どうかしましたか?」

僕 「ユースホステルを探しているんだけど、見つからないんだよ。」

男の子 「なんていうユースホステル?」

僕 「人民広場ユースホステルというところなんだけど・・・。」

女の子 「そう・・住所とか電話番号とかわからないんですか?」

男の子 「電話番号が分かれば僕が電話して場所を聞いてみるけど。」

僕 「それが住所も電話番号も分からないんだよ。」

 

男の子も女の子も僕と同じ困り顔をしだしていたが話を続けていると

どうやら彼らは週末を利用して地方から上海へ遊びに来たということだった。

二人とも優しくて英語もよく喋るし色々話をしたのだが、結局インターネットカフェを探して

予約確認メールを見れば住所や電話番号ぐらいは分かるだろうということになり、

僕はインターネットカフェを探すことにして彼らとは別れた。

 

インターネットカフェと言っても、どこにあるのか全く検討も付かないがとにかく繁華街の路地を歩けば

何かしらあるだろうと思い歩き出した。

 

当ても無く歩いていることほど不安で疲れることは無かった。

 

英語で中国人に聞いてもあっちへ行けと言わんばかりの目で見られ、お決まりの「不没(無い)」の一点張り。

たまに指差しであそこだと指差されたのだがその先に行ってみても何も無かった。

散々、歩いた後、あるショッピングセンターに辿りつき中に入ろうとしたら、女の子3人組みに声を掛けられた。

 

事情を説明してインターネットカフェを探していると伝えると、「このショッピングセンターの3階に確かあったわよ」

と教えてくれ一緒についてきてくれた。

 

3階に着くと薄暗い部屋にPCがずらっと並んだインターネットカフェではなくPCゲーム場のような場所だった。

早速、インターネットをしてメールを確認すると、そこには住所のみ記載されていた。

その英語で書かれた住所を書き取り女の子に見せると多分、分かると思うということだった。

 

ほっとした。

 

彼女達は今からお茶を買いに行くので、その後なら案内してくれるということだった。

「あなたも一緒にお茶を買いに行かない?」っと誘われたので、これも何かの縁ではないかと思い、

重いザックをユースホステルに早く置きたいという気持ちを抑えてついてゆくことにした。

 

お茶屋はショッピングセンターの2階にあり、僕たち4人は店の奥に通されカンフー茶を見ながら

気に入ったお茶を買えるというシステムだった。

 

当然、僕はお茶を買うつもりはなく、北京の国士監でみたカンフー茶と同じものを見て、お茶とお茶請けを

頂きながら女の子3人と話をしていた。

 

彼女達は上海にある医療品関係の貿易会社の地方支店に勤めていて、今日は会議があって上海に

出てきたのだと言っていた。一通りカンフー茶が終わり最後に上海雑技団のチケットを店員が売ってきた。

彼女達は夜雑技団を見に行くからあなたもどうかと誘われたが、金銭的な事情もあって丁重にお断りした。

 

彼女達はお茶と雑技団のチケットを買い、僕はカンフー茶代を清算しようしていたら、

財布からクレジットカードのゴールドカードが出てきた。

僕は今までの人生でゴールドカードを持ったこともなく、今自分の財布に入っているクレジットカードは

ANAのマイレージカードを兼ねた普通のクレジットカードである。

しかも、カンフー茶代は一人200元。貧乏旅行をしている身分で、たった1時間少々のカンフー茶に200元を

出費するのは非常に痛かったが、彼女達と出会わなければインターネットカフェは未だに見つからず

上海の街を彷徨っていたと思えば納得せざるを得なかった。

 

クレジットカードのことや、金銭的な理由から雑技団のお誘いを断ったこと、さらにカンフー茶代の200元を手痛い出費と

思っている自分が、なんとなく小さい人間に見えてしまった。

 

彼女達にユースホステルのある住所の通りまで案内してもらい別れた。

 

その通りは大通りから3本ほど通りを中に入った奥で、華やかな上海の大通りとは似ても似つかないような

路地だった。通りの両脇にはゴミが積まれ、生ゴミが散乱し、路上では食べ物を売る露天があり、子供は

歩道の真ん中で大便をしていた。参ったところに宿を取ってしまったと思ったが今更、宿を変更する気力も無く

そのままユースホステルにチェックインした。

 

ユースホステルでチェックインし階段を登り部屋へ行こうとしたのだが、ユースホステルの館内が異常に臭かった。

鼻を突くようなこの臭いはいったい何なんだと思ったがどうしようもない。

 

部屋の鍵を開け中に入ると昼間なのに真っ暗だった。

 

窓がない。

 

息苦しい部屋だったが、歩きつかれたため荷物を降ろして、しばらく休むことにした。

 

後で気づいたのだが、このユースホステルが入っている同じ建物内には

生鮮食料品を売るスーパーマーケットと公衆トイレが同居している建物で、ユースホステルの真下が公衆トイレだった。

どうりで臭いわけだと思ったが、どうしようもなく上海から出国するまでこの臭いにまみれるしかなかった。

 

・偽ブランド品

発展途上国を旅行していると偽ブランド品に出会うことがよくある。

 

例えば、タイに行ったときには路上で有名スポーツメーカーのTシャツを日本よりもはるかに安い値段で売っていた。

インドネシアでもヨーロッパの有名サッカーチームのユニフォームが破格の安さで手に入れることが出来た。

上海でもこれと同じように偽ブランド品を手に入れることが容易にできる。

 

ある夜、ユースホステルから路地を歩きながら繁華街である南京東路へ向って歩いていると路上でルイビトンやシャネル、

グッチといった有名ブランドのバッグを売っている露店を見つけた。

暗がりもあって偽物か本物かの見分けは当然分からないが、たしかにルイビトンのバッグであることは間違いなかった。

値札を見たら225元(3,600円)と書いてあった。日本だったら20万円近くするようなバッグだと思うのだが、

そんなバッグが露店には30個ぐらいの品物が並んでいた。

 

一通り見終わって立ち去ろうとしたら店員2人が慌てて品物を陳列しているゴザのようなものを巻き上げて逃げていった。

その素早さといったら凄かったが、辺りを見回してみるとどうやら警察の車が近くを通ったのだと気が付いた。

警察に捕まるまいと逃げたのだが、僕はその光景が妙に可笑しくて仕方がなかった。

 

中国旅行の前に予め偽ブランド品の情報をつかんでいたので、違法とは知りながら偽ブランド品を探して

夜の街を徘徊することにした。

 

南京東路を歩いているとビルの地下にお土産物屋が軒を連ねている場所を見つけた。

チャイナドレスや扇子、お茶や陶器など様々なものが売られていたが、奥の方へ向って歩いてゆくと

怪しい雰囲気がしてきて案の定、ルイビトンやグッチやポーターといったブランドバッグが吊り下げてある店が

出てきた。

 

それも何店舗も。

 

僕はこの怪しい雰囲気がとても好きで、店員との怪しい雰囲気での英語のやり取りが面白く、また、このスリルの

ようなものがワクワクして仕方がない。

 

値段の交渉をしてみようと思い数ある店の中で適当なお店に入りルイビトンの財布の価格交渉をしてみた。

財布を捜しているように店内を物色していると店員が何を探しているのか尋ねて来た。

ブランド物の財布か何かを探している旨を伝えると、怪しい笑みを浮かべながら陳列棚の下の引き出しを開けて

ルイビトンの財布を出してきた。一応、ちゃんとした箱に収められていたが財布を触った時の手触りがビニールぽくて

一見すると分からなそうだが、こんなもんなのかと思っていると店員は更に別の引き出しから同じ型の財布を出してきた。

 

話を聞けばこちらの方が質がいいのだと説明してくれた。

最初に出したほうは、やはりビニール製だけれども、後で出したものは皮で出来ているとしきりにアピールしていた。

値段を聞くと皮製いう財布の値段は280元(4,480円)だと言ってきた。

買い物は1/3まで値切れと聞いていたので言い値で買うわけもなく、落としどころを100元と決めて最初は80元と言ってみた。

呆れた顔をされたが、250元、220元、200元と下がりだしてきたが、僕は80元を譲らず固持していた。

店員は益々呆れ顔になったが150元まで下がってきた。そこで僕は90元と言って歩み寄りを見せた。

店員も150元以下では売らないと言い出したので、では100元ならどうだと言って見たが、聞き入れて

もらえなかった。

 

ここで交渉決裂と思い店を出ようとしたら「130元(2,080円)これがファイナルプライスだ」と言ってきた。

 

元々、自分用のお土産に財布を買うつもりだったので、目標価格である100元には届かなかったものの

130元で手を打つことにした。

 

買った後で店員が「日本人のあなたにとってこの30元の差がどれほどの価値があるのか?」っと呆れ顔で言っていた。

たしかに、30元といえば日本円にして480円である。480円だったら大学の学食で昼の定食の値段でしかないし、

コンビニで買い物をしたらペットボトルのジュース3本分の値段でしかない。日本で生活していたら、その生活の中で

何気なく使ってしまう金額であることには間違いない。

 

しかも、僕は決してケチな人間ではない。

 

ただ、外国で正当な値段が分からない上に、その分からない代物に対して明らかにボッタくっているだろうという値段に対して

僕はビタ一文として余分に払いたくないだけなのである。

適正価格でいいサービスをしてくれるのならチップも払うべきだとも思っている。でも吹っかけられたその値段で

買うことだけは断じて許されないのである。

 

その後も、別の店でポールスミスのシャツ120元(1,920円)を40元(640元)に、アルマーニのネクタイ80元(1,280円)を20元(320円)

バーバリーのマフラー120元を38元(608円)と次々に値切り倒して自分へのお土産を買った。

 

これだけ値切って買ったのだが、最初に吹っかけられた値段から実際に支払った値段を見比べても

相当吹っかけてきていることはよく分かったのだが、これだけ値切られても商品を売るということは

値切った値段でも利益を出せるのだから、仕入れ値はいったいいくらなのかを知りたくなってしまう。

 

これは後日談になるのだが、上海で買った偽物ルイビトンの財布と同じものを日本のルイビトンのお店で見つけたが

こちらの価格は52,500円だった。

帰国後その財布を使い出したのだが結局、半年後には財布のあちらこちらが破けだし使い物にならなくなってしまった。

 

やはり、偽物はそれなりの品物である。

 

・妹との再会

杭州から上海に戻り、日本に帰国するまでは4日間の滞在になった。

北京に行く前の滞在で上海のほとんどの観光地は見て回っているので観光するところはなかった。

偽物ブランド品を見て回ったり、以前カメラを盗難された南京東路をブラブラあるいてみたり、

怪しい回転寿司屋に入ってみたりと暇をつぶしていた。

 

上海には僕の事を兄と慕ってくれるリキブンという中国人の女の子がいる。

彼女は僕が通う大学に留学してきて、同じく僕が在籍する日本語教室に来てくれたことで出会い、

親しくなり、僕もリキブンの事を妹のように思っていた。

 

彼女が日本の留学を終えて帰国した後もお互いに連絡を取り合っていて、今回の中国への旅も彼女が

色々調べてくれたり、いいアドバイスをたくさんもらった。

 

彼女は中国へ帰国後、日本語の語学力を活かして上海で日本人留学生のコーディネートをする会社で

仕事をしている。

 

上海に滞在中の或る日、彼女の会社が主催する上海復旦大学の学生と日本人留学生との

日中交流会のイベントがあるということだったので、僕も一緒に参加することにした。

 

地下鉄を乗り継いで会場まで行ってみると、あまり広くない部屋に日本人と中国人が、何かを

しきりに会話していた。

 

そのあまりの熱気や中国語を全く話せないため会場に入ることも出来ず受付でリキブンと話していると

会社の上司が来て会話に加わった。

 

僕は今まで中国で起きた出来事を上司に色々話したのだが、終始笑いながらその出来事についての理由を

聞かせてくれた。

 

その上司は僕との会話の中でとても印象的な事を教えてくれた。

 

「もし100年の歴史を見たいなら上海へ、1000年の歴史を見たければ北京へ、5000年の歴史を見たければ西安へ行きなさい。」

 

この言葉を聞いて納得してしまった。

 

この三つの都市の内、上海と北京に行ったが僕自身も100年と1000年の歴史をこの二つの都市から感じていた。

 

上海は100年前、ヨーロッパや日本の租界が誕生し改革開放から経済成長が目覚ましく、今の中国を象徴するような

近代都市と化している。中国の激動の100年間の歴史がここにあると、そう感じていた。

 

北京は紫禁城など中世からの歴史がある。中国歴代王朝がその首都を置いていた場所だけあって長い歴史がそこにはあった。

そして2008年夏の北京オリンピック開催まで。

 

本当に納得できた。リキブンの上司との会話で色々な疑問が解決された気がした。

 

その後、日中交流会を後にして、リキブンは僕を韓国料理レストランに連れて行ってくれた。

場所は復旦大学の近くにあって、韓国人留学生の為のレストランという感じだった。

店内に入ってみると大きな鉄板がテーブルに備え付けてあり、僕たちは食べきらないぐらいの焼肉を食べた。

↑巨大な鉄板

 

ビールも飲んだ。

この頃、僕は中国の青島ビールが好きになっていた。なにが好きという訳ではないのだろうが異国で飲むビールは

味がどうのということよりも、異国で飲んでいるというエキゾチックな感じや開放感が勝るため印象的に感じるのだろうと

思った。

 

奥のテーブルでは韓国人留学生の20人ぐらいの集団が合コンをして盛り上がっていた。

どこの国の学生も日本と同じように合コンをするんだなと思うとちょっと可笑しかった。

 

食事が終わり、外をふらつき、カフェでソファーに座りカプチーノを飲みながら話をした。

 

リキブンには中国で起こった出来事や旅を総括をするような話をした。

それから旅に出かける前まで、日本で好きだった中国人の女性の話。

 

お互いにお互いのこれまでの出来事を話したが、僕は妹のように可愛がり心を許している彼女と話すことで

心に詰まっていた消化不良のような異物が取り除かれた気がした。

 

また、将来的に二人で中国と日本との間で何か事業をしようかという、嘘か誠かどっちもつかぬような

話で盛り上がったが、僕はまんざら嘘ではないと思っている。

 

話は尽きなかったが夜も遅くなってきたので、明日会う約束をして別れた。

 

翌日はリキブンは休みだったので二人で買い物をした。

シャン西南路というブランド品が並ぶ通りで買い物をしたがここはとても面白かった。

大通りは正規ブランド品が並び値段も日本と変らないかそれよりも高い値段で売られていた。

一方で、大通りから筋を一本入ると、そこは偽物や生産工場から訳あり品で安く払い下げられた

バーバリーやポールスミスなど有名ブランド品が無造作に売られていた。

 

そのギャップが面白くて店を見て周り、その中のある店でバーバリーのシャツを格安で購入した。

 

リキブンと通りを歩いていると偽物を売る店の客引きが声を掛けてくる。

しきりに偽物ブランド品のカタログを僕たちに見せてきて、僕は笑いながら

「それは偽物だろ」というと、客引きも笑いながら「そうニセモノ」と返してくる。

 

駅に向っている僕たちに必死になって売り込んでくる。

 

僕 「本物じゃないだろ」

客引き 「ホンモノ!ホ~ンモノ!!」

 

客引きも僕も笑うし、リキブンは「嫌だ嫌だ怖い怖い」といって先を歩きだすし、この光景が可笑しくて可笑しくて

僕は仕方がなかった。

 

結局、駅まで付いてきたが僕たちは何も買わずに地下鉄に乗り、今度は有名なお茶屋へ行った。

 

お茶屋さんでゆっくりお茶を飲みながらお茶請けを食べ話をして夜になるのを待ってから、外難(バンド)へ行った。

 

↑外難(バンド)の夜景

 

以前、この夜景を撮り終えたあと、そのカメラを盗まれたので外難の夜景はカメラに収めていなかったので

写真を何枚か撮った。上海から日本に帰る前に撮ることができてよかった。

 

外難の夜景を眺めた後、帰りの路地を歩いていると何人かの物乞いとあった。

中国の物乞いについては、話を聞いていたが、勿論、生活が困って物乞いをする人はいるが、

中には日本で言うヤクザみたいな人に何か巻き込まれて手足を切られ無理やり物乞いにさせられる人もいるらしい。

それからお金欲しさに、血を吐いたと見せかけて赤いインクを着けているだけの人とか。

 

なるほどっと思いながら見ていたが、明らかに不自由そうな一人の施し缶に財布の小銭を入れた。

 

リキブンと外難の夜景を見た後、人民広場駅まで一緒に歩きながら華やかな上海最後の夜を見ていた。

小腹が空いたので通りにあるレストランに入ったのだが、ここの料理は最悪に不味かった。

リキブンが「お兄ちゃんの最後の夜に食べた料理がこれじゃ~」っと悔しがっていたが、これもいい思い出だと

僕は思っている。

 

リキブンとの上海での再会、そしてまたの再会を約束して別れた。

 

日本でであった中国人の妹と上海で再会できるという事が、僕はとても嬉しかった。

日本人や中国人、外国人問わず、人とは心から誠実に接すれば付き合いは続き、何かあったときには

必ずそうした人たちが自分を助けてくれると身にしみて実感した。

 

そうした付き合い方が、良い友人に恵まれている僕の人生の財産であることは間違いない。

 

・日本へ

リニアモーターカーと聞くと未来の乗り物というイメージがある。

山梨県で試験を繰り返していて最近実用化が正式決定されてはいるものの未だ日本では実用されてはいないが、

上海では空港と市内を結ぶ路線として既に実用化されていた。

折角、上海に来てリニアモーターカーに乗るチャンスがあるのにそれを放棄することはないだろうと思い

帰国便に乗るために上海空港に向う途中に人生初のリニアモーターカーに乗車した。

 

 

↑上手く撮れていないが、これが駅舎とリニアモーターカー

 

 

↑リニアから見える上海郊外の風景

 市中心部の高層ビルとは打って変わった風景に少し驚いた。

 

 

↑車内の電光掲示板。時速431Km/hは世界最速の列車としてギネスブックに載っている。

 

電車はフッとした感じで走り出すというか滑り出して、徐々にスピードが上がって行った。

しばらくすると室内にある電光掲示板には世界最速431Km/hと表示された。

 

外を流れる風景は日本の新幹線の比較は出来ないぐらい速いスピードで流れていた。

平行して走る高速道路の車もまるで一般道をゆっくり走っているように遅く感じた。

車内の振動もあるがカーブを曲がる時になんとなく横方向に重力を感じた。

 

このスピード感に僕は興奮せずにはいられなかった。

 

リニアは出発から7分30秒で空港に到着する。

 

外を流れる風景を眺めながら、僕はフッと考え込んでいた。

 

日本に帰ることは1ヶ月のくたびれた一人旅の終わりを意味し、僕は自分の国に帰る事を

懐かしく思い心待ちにしていた。

 

その反面、

 

もしも、このリニアが空港に到着しても飛行機にあえて乗り遅れさえすれば、日本に帰れなくなる。

変な表現をしたが、実は心のどこかに、このまま上海で就職して日本に帰るのをやめてしまってはどうだろうかっと

真剣に思っている自分がいた。

 

事実、上海で出会った人たちの協力を得たり、日本語情報誌に書かれた求人などを駆使したり、

日本料理レストランで皿洗いでも何でもさせてもらえればこの街で生活できるのではないかと

思っていた。

 

僕は旅に出ると解放される。

 

普段、何のストレスも感じていないように思えて、実は色々なプレッシャーやストレスを感じている事を

僕の存在を全く感知しない海外に行くことで改めて思い知る。

 

良い友人知人に恵まれ、自分の財産だと思っている交友関係なのだが、その分、自分の行動が

いつも誰かの目に留まり、見られているというプレッシャーが常に僕にはある。

 

本当はもっといい加減や適当に暮らして行きたいと思っているのだが、常に自分の行動を律して

役不足を痛感してはいるものの、後輩のいいお手本とならないといけないと、勝手に思い込んでいる。

 

それがストレスに変っているのだと自分の事を分析している。

 

やや愚痴っぽくなってしまったが、そんな生活にまた戻るよりも、この上海という街で仕事をして

暮らしていけたら大学院を中退してもいいのではないかと思ってしまった。

 

リニアの外を流れる風景に自分を溶け込ませようとしたが、リニアは空港に到着して、フッと我に帰ると

乗客は立ち上がりだし荷物を持ち出している光景を見て、現実に引き戻された。

 

そして、そのまま僕は中部国際空港行きの飛行機に乗り遅れることなく出国手続きをして搭乗した。

 

自分で自分に言い訳をした。

 

あと1年半後に学位を収めた後でもきっと遅くはない。

もしこの街に縁があれば、そのときに、またこの街に来ることが出来るはずだと、

そして本当に日本での生活を捨てたいとそう思ったなら、自分自身の気ままな人生なのだからそうすればいい。

 

だたし、今、日本の生活を投げ出すことは、ただ単に逃げ出したいだけでわがまま以外の何物でもないことである。

そう自分を再度、律した。

 

そして、日本に帰国し今までの生活に戻った。

 

中国を旅して、辛かったり、楽しかったり、悩んだりと色々だったが、結局、僕が理解したことは、

とにかくこの国は広く、多様で、長い歴史を持っているということと、この国を理解するには時間が

あまりにも短すぎるということだけだった。

 

「この国が分からない」ということが今回の旅で分かったことだった。

 

経済成長が著しくGDPは日本を抜いて世界第2位になろうとする中国は、日本とも世界とも切っては切れない

関係になっている。

 

世界が注目するこの国の形を、僕はもっと理解しなければならないと感じた。

 

この国の旅を終えた。

 

日本は10月が近づき夏が終わり秋に突入していた。今年の僕の夏は中国で始まり中国で終わった。

浮浪雲~中国 (七)

杭州 2008.9.13-2008.9.19

 

中国への旅は終盤にさしかかっていた。

北京での滞在中に次の目的地をどこにするのかを決めあぐねていた。

このまま北京から上海に戻ろうか、それとも古都である洛陽と長安へ向おうか。

移動日数と交通費、残りの滞在日数を考えて悩んでいたのだが結局選んだ場所は

上海から西にある杭州という場所に決めた。

 

次の目的地である杭州に決めたのは地球の歩き方に上海と一緒に杭州と蘇州が

載っていたからと言うことが単純な理由であったが、西湖という湖に非常にもそそられたからだった。

 

目的地は決めたが杭州まで何で移動をしようか、バスにしようか、それとも電車で行こうか。

しかし、北京から杭州までの過酷であろう数十時間の道のりをバスや電車で行くほど、

僕には気力も体力は残っていなかった。情けない。っと思ったが、もうそんなことを

言っていられる状況ではなかった。

 

結局、海外旅行ではあまり利用したことのない、交通手段の飛行機で杭州まで行くことにした。

それに、電車の運賃と航空運賃が百数十元しか違わなかったのも飛行機を

選んだ理由だった。

 

航空券を予約して、その2日後には北京のユースホステルをチェックアウトし

北京空港まで電車で行き飛行機に飛び乗った。

 

北京国際空港はサッパリとした感じで閑散としていた。これが人口13億人の中国の首都にある空港であるとは

思えないほどだった。

 

チェックインして飛行機に乗り込み、無事に離陸をした。

水平飛行に入るとフライトアテンダントが昼飯を運んできた。僕を見るなり中国語でビーフかチキンかを

尋ねてきたのだが中国語は全く分からないので「中国語が分からない。」と言うと、1つため息をつき

英語でどちらかを聞いてきた。

 

金を払って飛行機に搭乗している客にたいして、その人を不快にさせるため息を

何故いま僕に浴びせるのか理解できなかったがこれが中国人のサービスなのだと自分を納得させた。

 

しかし、その後もドリンクを僕の腕にこぼして謝りもせず紙を渡すのみ、さらに通路側に座っていた僕が

ヒジをひじ掛けにおいていると横を通るフライトアテンダントの尻が当たってカクンとなる。それも一度ではない

二度三度だ。これもやはり謝りもしない。中国の飛行機がこれほど不快な乗り物だとは思わなかった。

 

ともかく、飛行機は無事に杭州空港にたどり着いた。

 

北京を出発する時は快晴だったのだが、杭州は雨だった。

この雨空のドンヨリした雰囲気と雨が今の僕の不快な心境を表しているようだった。

リムジンバスに乗り街へ移動したが、その移動中に車窓から見える中国の家がどれも中国らしくなく、

さらに全部同じ形の家が並んでいることに不思議さと面白さを感じた。

 

杭州駅にバスが到着したが、ユースホステルまでどうやって移動しようか考えていると、バス停に

タクシーが待っていた。いかにも怪しそうな中国人ドライバーが寄ってきて地図を見て「20元」だと

言ってきた。日本以外の世界中どのこ国をこの手のドライバーが観光客相手に正当な運賃を提示してくる

ハズはなく無視してバス停を探しだすと、そのドライバーは他の客を乗せて去っていった。

 

バス停を探しながら少し歩いていると、英語を話せる中国人カップルの女の子が声を掛けてきた。

北京や上海、そしてここ杭州では不思議なことに英語を話せる中国人は外国人に

「Hi」とか「Hello」とか普通に話しかけてくる。これが南米のペルーであったなら、怪しい客引きだと警戒するのだが、

彼らはごくごく親切に対応してくれた。なんの警戒も要らない、その親切がこの上なく嬉しかった。

 

彼女にユースホステルまでのタクシー運賃を聞いてみると大体10元ぐらいで行けると教えてくれた。

予想通り、先ほどの怪しい中国人ドライバーが吹っかけていたのが分かった。

 

ユースホステルまでの行き方を教えてくれた彼らと別れた後、すぐさまタクシーに乗り、ユースホステルまで行くと

やはりピッタリ10元だった。

 

 

・虎跑泉

杭州のユースホステルに荷物を置き、ガイドブックに載っている観光地に行くことにした。

 

最初の行き場所は虎跑泉。

 

ここは819年創建された禅寺の虎跑寺の敷地内に湧く銘泉で天下第三名泉と称されるものだった。

ここの銘泉から湧く水で飲むお茶が美味しいというのがこの地を訪れた理由といえば理由だった。

 

↑虎跑泉の入り口。丁度雨が降った後だったので雨に濡れた木々がこの場所の静寂さを

 引き立てていた。

 

↑池の中から伸びる木々。この光景に違和感を覚えるのは林学を学んでいるからであろうか。

 

↑今まで訪れてきた観光地に比べて人が非常に少なく静かな場所だった。

 この池の周りにも人がおらず、この景色を独り占めできた。

 

↑敷地内にある茶屋で休憩。どうしても窓側の席に座りたくてテーブルを探したら

1つだけ空いていたのでそこに座る。お茶を頼むと御茶請けのヒマワリの種と

一緒に巨大なポットと急須が出てきた。

ゆっくり休憩しようとしたのだが、隣に座っていた中年夫婦がヒマワリの種を

口で上手に割りながらその殻を「ペッペッ」っと床に吐き出していた。

この御茶屋の雰囲気がぶち壊されてしまった。なんで中国人はっといつもながらに

思ってしまったが、これが中国なんだとここでも納得せざるを得なかった。

 

↑この虎跑泉の由来はこのお寺の禅師の夢の中に仙人が現れ、元々水に乏しかった

この地に2頭の虎を遣わして泉を掘らせたのというものらしい。

 

↑ここが虎跑泉。ガラス張りになっているが確かに水が湧いて出ているようだった。

 

↑雨後で雨に濡れたこの森にある虎跑泉の美しさがとても印象的だった。

 

・新彊料理店

新彊料理は以前にも書いたが中国の旅でよく食べていた料理だった。

上海でも北京でもこの新彊料理の店を探しては入り食事をしていた。

打ち立ての麺を茹でて出してくれる焼そばやラーメンは最高に美味しかったし安かった。

 

杭州でもYHの近くにある新彊料理の店をさがして入ったのだが、ここの従業員はみんな

陽気で日本人の僕を面白がって接客してくれた。牛肉麺が一杯7元(112円)で食べられる。

 

↑雑居ビルの1階にある小さな店だが麺の茹で釜が外にあって、迫力があった。

 

↑店内で客の目の前で麺を打つ。このようなお店は街のいたるところにあるのだが、

特にこのお店のお兄さんが愛想がよく自分の水筒からお茶をくれたり、桃をくれたりと親切にしてくれた。

 

↑こうして人数分の麺を注文を受けてから延ばしてくれるのだが、その手さばきの見事なことと

 いったら素晴らしかった。

 

↑打った麺を茹でる。

 

↑このお店の店員たち。一番左の男の子が息子さんのようだったが、一生懸命働いていた。

一番左側は奥さんで、この奥さんも店のお勧めを教えてくれたり、中国語で日本のことを聞いてきたり

色々話しかけてくれたのだが僕は中国語が分からないので会話にならなかったのが残念だった。

 

・西湖

 

杭州には西湖という湖があるが、この湖は中国十大風景名所の1つに数えられており、杭州随一の観光名所である

杭州を訪れる目的はこの湖を観光することだった。

 

僕が泊まっていたユースホステルは西湖の直ぐ横にあって徒歩30秒ほどで西湖の湖畔まで行くことができた。

杭州に来てからは1日に1回は必ずこの西湖を眺めたり湖畔の遊歩道を歩いたりと毎日、目にしていた。

この西湖は中国にしては、きれいな場所で湖にも遊歩道にもゴミはほとんど無かったしきれいに整備されていた。

その光景が中国にしては奇跡に近い快挙のように思えたが、この西湖観光による観光収入を考えたら、

金のためにきれいにするという、中国人の利害に合致するのだろうと思いをめぐらせてしまった。

 

西湖の周辺には観光客用のお洒落なレストランが多数あったが、どれも僕のような貧乏旅行者が入って

食べられるような値段ではなかったので、毎日それを横目に見ながら中国の旅で食べなれていた安い新彊料理を

食べ続けていた。

 

西湖周辺にはガイドブックを見る限りでも、多くの観光地が存在していた。

杭州に来てから天気がよくなく雨が降る日が多かったが、晴れた日に西湖観光をすることにした。

 

↑西湖遊覧船。船着場から西湖内にある島を巡り対岸に着けてくれる船。

 船頭付きの手漕ぎボートもあったが効率的ではないと思ったのでこちらの遊覧船を利用した。

 

↑遊覧船に乗り湖上から見る丘。真ん中に立っている塔は宝石流霞(ほうせきりゅうか)という場所にある保俶塔。

 

↑遊覧船に乗り最初にたどり着いたのが湖心亭という小島。

 周囲200mぐらいだろうか本当に小さい島に建物が建っていた。

 

↑昔の湖心亭。その昔、乾隆帝が作った島であることが館内の案内で分かった。

昔の写真はなんだか殺風景な感じかするが、白黒写真と立木の葉が落ちているためだろうか。

 

↑湖心亭の島内。北京の紫禁城にあった建物のミニチュアのようだったが、ここでも瓦は黄色で

 皇帝が所有する建物であることが理解できる。

 

↑さらに遊覧船に乗り、もう一つの島、小瀛洲(しょうえいす)へ。

 

↑小瀛洲の島内。この島の面白いのは島内に4つの池があり、

この島を上から見ると丁度、鹿児島県のマークのように丸に十の字よのうな形をしていた。

 

↑小瀛洲には西湖十景の1つ三潭印月という名所があるが、その石碑が島内に建っていた。

このような石碑が西湖周辺ではあちこちにあり、それぞれの場所で見れる西湖の景色を書いていた。

 

↑小瀛洲から外の湖上には湖上に浮かぶ石塔が3つあり、これが三潭印月の意味でもある。

三潭印月とは、月夜の晩にこの3つの石塔を船上から眺めた景観美をさしているとのこと。

仲秋の名月の時にはこの塔に火が燈されるようで、湖面が金色に輝くという。

 

 

↑西湖遊覧を終えて、歩いて名所である宝石流霞まで行った。遊覧船に乗ったときに見えた保俶塔の下まで

行ってみたが下から見上げて見たが、遠くから見たときには高い塔だと思っていたが実際にはそれほど

大きくはないという印象を受けた。石造りの6角7層の塔で高さは45.3m。

 

↑名所、宝石流霞にも名前の由来があって、手前の岩場の岩石が酸化鉄を含むようで、光を受けると

山肌が宝石のように輝くということから、この名前になったようである。保俶塔から歩いてこの岩場まで

いったのだが、岩場に上るのが一苦労な上に手すりも何もなく足を滑らせたらそのまま下に落ちてしまう

恐怖感があったが、そこからの眺めは良かった。

 

↑岩場からの眺め。杭州に来て色々な場所に行き、様々な景色を見てきたが、

西湖の風景の中でここからの眺めが僕は好きだった。

 

↑夜になって湖畔を歩いているときれいにライトアップされた塔が暗闇の中に浮かんでいた。

 

↑名所、雷峰夕照。意味は雷峰塔に夕日が重なった時に見せる輝くような美しさから名づけられた。

奥に建っているのが雷峰塔。

 

↑昼間に歩いて通った時と、夜訪れるこの場所は雰囲気が全く違っていた。

人もおらず、ライトに照らされた建物はとてもきれいだった。

 

 

↑雷峰塔の入り口。古い建物だとばかり思っていたら、近代的な塔であった。

 以前建っていた塔は倒壊して2002年に新しく復元されたようである。

 

↑塔内には古い塔の残骸がそのまま展示してあった。

 

↑7層建ての塔の層内。エレベーターで頂上まで登れるのだがエレベーターを降りたフロアは

近代的で煌びやかだった。

 

↑精巧に彫られた彫刻。こんな彫刻が塔内にはいくつもあった。どれも中国の古い物語を

かたどったもののようだった。

 

↑塔の展望台からの夜景。昼間行った小瀛洲を見ることが出来た。湖面に浮かぶ小瀛洲と

その奥にある灯り、心地よい涼しい夜風に当たりながらしばらく見入っていた。

 

杭州には7日間滞在していたが、この西湖観光以外にも様々な人と出会い、また出来事もあった。

 

或る日、西湖観光を終えて部屋に帰ってくると一人のハンガリー人がいた。

彼の荷物が数日前からベッドの周辺にあったことは知っていたが持ち主が居らず、誰なのかわかなかったが、

荷物の持ち主である彼と部屋で出会い、自己紹介をした、直後に彼がものすごい剣幕で喋りだした。

彼は上海へ1日観光旅行に行き、そして本当は昨日の夜中に、杭州に戻ってくる予定だったのだが、

上海でフランス人のゲイに捕まり帰れなくて1泊して帰ってきたとのことだった。

 

その経緯を彼は、

「俺は上海であるフランス人の男と出会ったんだ。その男がものすごく親切な男で飯をご馳走になり酒も飲ませてもらい、

 その後、クラブに行ったんだよ。クラブには旅行者や駐在のヨーロピアンが多くいて、中国人の女も多かった。

 しかも、中国人の女は皆すごくセクシーだった。クラブを出た後、そのフランス人の男が

 夜遅くなったから家に泊まっていけというので彼のマンションまで行き部屋でくつろぎ出したのだが、彼がいきなり

 マッサージをしたいと言ってきたんだ。俺はなんか変だと思ったら、案の定、彼はゲイだった。マッサージをさせてくれと

 しきりに懇願され、さらにお金もやるからと言われたが、俺はゲイではないし、特に男に身体を触られるのは嫌なので断り

 マンションをを飛び出したんだよ。だけど、杭州に帰ろうとも、夜遅くてもう電車が無いので仕方なく上海に一泊したんだ。」

 

「それは大変だったね。」っと僕が言うと、彼はさらに付け加えた。

 

「でも、上海のクラブでは何でもありだった。金さえ出せばなんでも出来そうだ。いい酒も飲めるし、マリファナもあったし、

 中国人の女とも金次第だった。今度、上海に行く時は絶対に金を沢山持っていくことにするよ。」

 

彼は、今まで世界11ヶ国を11ヶ月間かけて周り中国を最後に母国へ帰ると言っていた。

僕はそんな彼にどうしても中国の印象を聞きたかったので尋ねてみると彼はこういっていた。

 

「例えば、上海では道を走る車と言えばベンツやポルシェなど高級外車がほとんどで、金持ちの人口はかなり

 多いと思う。しかし、駅や路上で物乞いをしている人にびた一文もあげようともしない。旅行者の俺でさえ、

 足を不自由している老人にポケットの小銭をバケツに入れたよ。それに他の外国人が同じようにしているのを

 見かけたが中国人がそれをしたところを見たことがない。」

 

僕の持っている中国に対するほぼ印象と同じだった。

やはり中国に対する印象の悪さと言うのは、僕個人的な感じ方なのかもしれないと思っていたことを、

万国共通の認識事項だったとこの時点で改めた。

 

その後、彼は一通りの出来事を喋り終わったあと静かになって、黙々と部屋の荷物をまとめだした。

昨日の出来事をどうしても人に話したくて仕方が無かったのだろうと僕は察した。

 

ユースホステルでは2人の日本人旅行者と出会い、その他にもドイツ人やアメリカ人、国籍不明の東アジア人等々

様々だった。そんな彼らと出会いと別れを繰り返しついには1週間の滞在も終わり杭州から上海へ移動する日がやってきた。

 

電車で上海に戻ろうと思いチケットを取りに杭州駅まで行ったのだが、人でごった返していた。

チケットカウンターの窓口に人が並んでいたので、その後ろに並び順番が来るのを待っていたが、横入りの応酬だった。

いい加減この状況にうんざりだったが、ここは中国なので仕方がないと諦めて、横入りを制しながらやっと僕の番が回ってきた。

 

中国語も分からない上に、英語が通じない場合は漢字で筆談をする。日本人として他の外国人よりも

中国を旅する上で優位な点である。

 

出発日時と上海の到着駅、座席指定など筆談をしながら何とかチケットを取ることが出来た。

とりあえずホッとして、これで上海に戻って数日後には日本に帰国できると思うと、急に日本が

恋しくなってきてしまった。

 

上海までは日本で言う新幹線が開通しているのでそれに乗ることにした。1時間45分で上海に到着する。

 

上海に戻る新幹線に乗り窓の外に広がる景色を見ていたが、のどかだった。成長著しく日本のGDPを抜く

勢いがある中国だが巨大な大陸の都市と都市を結ぶ線路沿いには未だ開発の手が入らないのどかな農村が

広がっていることにどこか安心感のようなものを感じてしまった。

浮浪雲~中国 (六)

・雍和宮

中国には漢民族の他に満州族、チベット、モンゴルなどの民族が存在している。

13億人もの人口が住んでいる国なので地域によっても文化や習慣、もちろん宗教も違うはずである。

この雍和宮もその民族的なものを象徴する建物である。北京にあるラマ教(チベット仏教)の聖地の

様な存在で観光地として紹介されているもののどこか他の観光地とは違う静けさというものを

感じることが出来た。宗教的な意味合いが強い場所なのだからかもしれない。

 

雍和宮へはユースホステルからバスですぐにいける距離にあった。

北京滞在も見るべきところは一通り見て回ってしまったので、暇つぶしするつもりで

ふらっと行くことにした。

 

↑入り口。

なんとなくだが北京にある歴史的な他の建物とは違った感じがした。

後で調べたことだが、この寺院群は各民族の建築様式が融和した建物ということだった。

 

↑門を入って直ぐに拝む場所があり、子供から老人まで線香に火をつけていた。

僕はこの線香の香りが嫌いではなく、なんとなく懐かしささえ覚えた。

この煙の向こうに見える仏殿が尊く感じられた。

 

↑経典の書かれた円筒形の筒を回して参拝する。ラマ仏教独特の方法である。

 

↑ラマ仏教の僧侶と熱心に参拝するおばさん。失礼な言い方かもしれないが、中国人に

ここまで熱心な信仰心があるとは正直驚いた。ゴミをあちこちに捨て、誠実さが感じられない、

粗暴な振る舞いをするという印象が僕にはあるだけに信じられなかった。

 

↑孔廟国士監という孔子を祭った場所が雍和宮の道を挟んで隣にあったのでそこにも訪れた。

 

↑科挙という国の高級官僚採用試験というものが昔あったらしく、その状況を人形をつかって

再現してある。この孔廟の横には国士監という建物もあり、そこで科挙の試験が行われて

いたらしい。

 

↑孔廟を出た前には御茶屋があったので休憩に立ち寄ってみた。

お茶を頼むと説明しながらお茶を入れてくれた。静かな雰囲気で外国人対象で

店を出していることが直ぐに分かった。従業員も流暢な英語を喋っていたが

お茶の値段はそれ相応だった。

 

↑しばらく御茶請けを食べながら今までの中国の旅をぼんやり思い返していたが、

この国のことを理解できない自分をどうしても理解できなかった。

日本の隣国であるこの国は、僕の中で知らないうちに美化され日本のルーツが

ここにあるはずだと勝手に思い込んでいた。欧米に比べれば日本文化に近い国であると

思わずにはいられなかった。しかし、それは旅を続けるうちに、もろくも崩れ、勝手に思い込んでいた

感情を裏切られたように感じていた。それが僕がこの国に違和感を覚える理由に他ならなかった。

 

この先旅を続けていくうちに、または旅の終わりには僕はこの国のことを理解できるのだろうかと

真剣に考えた。お茶を飲みながら禅問答のような迷宮に迷い込んだ感じがした。

 

・明十三稜

明王朝の歴代の皇帝が眠る墓が北京郊外にはある。ここも世界遺産に登録されている建物なので

この際、行くことにした。

 

市内からローカルバスを乗り継いで行ったのだが、例のごとく不親切な案内に惑わされて、悩まされ

なんとか着くことが出来たのが朝ユースホステルを出てからすでに昼を回っていた。

ローカルバスを乗り継ぐ間に朝食を食べていないこと気がつき、バス停の近くにあった

果物屋によってブドウを買った。言葉が分からず身振り手振りでブドウを購入したのだが、

一人では食べきれないほどの量だった。しかも12元(192円)。

 

喉が渇き果物が食べたいと前々から思っていたが、中国の果物を口にするのがどうしても躊躇した。

料理ならば火を通してあるし一応は安心できるのではないかと思っていたが、果物に関して、特に

ブドウのように皮さら食べるものに対しては少し不安があった。日本でも盛んに中国食材に対する

悪いニュースが流れていた時期であった為になおさらだった。

 

しかし、果物屋に並んだみずみずしい果物を見ていたら、どうしても欲望を抑えきれずに買い、

バスを待つ間に食べてしまった。1つ食べるとその美味しさに農薬やなんやらの話は頭から消え

バスを待つ間に結構食べていた。食べた後にお腹を壊したわけでもなかったので不安はタダの不安だった

と後で気づいた。

 

↑バスを乗り継いで神道という墓稜に続く道にたどり着いた。観光地なハズなのに静かなところで

人は全くいなかった。ここに立ち寄る観光客はほとんどいないんだろうと感じた。

 

↑ここには動物や人の石造を左右に配置してある。

 

↑象の石造も精巧に出来ているが、昔の中国には象がいたのだろうかと素朴に感じた。

きっと昔の皇帝が遥か南方から取り寄せたりしたのだろうと思いを寄せた。

 

↑石造は意外と大きいのが分かるだろうか。僕の身長は177cmなので石造は3m以上は

あるだろうか。

 

↑写真を写真で撮ったので上手く分からないかもしれないが左側が昔の写真で

右側が現在の写真。昔の殺風景さがよくわかる。

 

↑神道を通り終え、定稜という墓稜までバスで移動することにした。

車窓からの風景はのどかで果物畑が続いていた。こんな場所で取れる果物に

日本で報道されているような相当量の農薬を散布しているとは、とても信じられなかった。

 

↑上の写真に写っている車はベンツ。この写真に写っているのは三輪車。

同じ道を走っている車が最新のベンツと三輪車というのが面白かった。

今の中国を象徴しているようだった。

 

↑中国のバスは日本のバスを2台縦につなげたような感じで連結部分に蛇腹のようなものが

ついていてカーブではくの字に曲がる面白いバスだった。バスには必ず服務員が乗っていて

料金を徴収していた。バスの中で記念に写真を一枚撮ったら服務員の女性に睨まれて

しまった。この服務員の女性の年は20代前半だろうか、今まで乗ったバスではおばさんが服務員を

していたので珍しいなと思った。

 

バスが定陵についてバスを降りようと降車口へ行くと、横からの視線を感じ彼女を見ると目が合った。

彼女は二つ折りにしたメモ用紙を僕に手渡してくれた。

僕はキョトンとしながらそれを受け取り、何かを彼女に言おうとしたが、彼女はメモを手渡して直ぐに目をそらし、

僕は後ろの乗客に押されながらバスを降りた。

 

メモ用紙を開いてみると

 

You can take bus No,314 go home,7:40pm No314

No314 go to 昌平東 換 No919,345 go to Deshengmen

 

と書かれていた。

 

メモを見て帰りのバスの時間を書いてくれたのだとすぐに理解できたので、バスに乗っている彼女を見上げると

彼女はこちらを見ていた。とっさに「Thank you」っといって手で合図すると彼女は笑っていた。

 

僕は単純に、そして本当に嬉しかった。

 

この中国の旅で理不尽さを覚えることはあっても親切にされることは皆無に等しかった。いや全く無いといってもいい。

その中で中国人の彼女が手渡してくれたこのメモが、帰りの時間を教えてくれていたことよりも

その親切心がこの上なく嬉しかった。

 

物質的な行為よりも、行為に対する気持ちが大事なのだと改めて感じた。

 

この感覚は日本人独特の考え方なのだろうか。日本人としてのアイデンティティーのようなものを

感じた瞬間だった。

 

今でもその手紙は僕のパスポートケースに大事に折りたたんでしまってある。

中国の旅の中で一番の思い出であり自分へのお土産だと思っている。

 

↑定陵の入り口。日本にはこれだけ大きな墓稜があるだろうか。敷地建物どれをとっても

それを凌駕していると思った。

 

↑中国の旅も中盤に差し掛かり、中国料理も飽きてきた。そんな時におやつ感覚で食べた

カップめんが、かなり美味しいことに驚いた。それから昼には中華料理を食べるよりも

カップめんを食べる方が多くなった。しかもこのカップめん3元(48円)で食べられるから

貧乏旅行者にとっては最高の食べ物であった。

 

↑正面に見える建物が墓稜の上に立つ建物。

 

↑実はこの定陵は学術目的に発掘されており、中を見学することが出来た。ここがその入り口。

 

↑入り口の階段を下り中に進むと地下宮殿のような場所に出る。石を重厚にまた精巧に組み合わせてあり、

ここを発掘する時に相当時間が掛かったとのことだった。

 

↑地下にこれだけの空間があるとは外からでは想像もつかなかった。

室内は冷たかった。壁を見ても石を密に組み合わせてあり昔マチュピチュやクスコで見た

石組みよりもさらに精巧に組み合わせてあるように感じた。

 

↑室内にも石を門の形にかたどったものが作られていた。

 

↑地下宮殿を出て、墓の上の建物からの風景。のどかな感じがする。

 

↑地下宮殿を発掘するにあたり、その作業状況を写真で記録したもの。

定陵の横には出土品を展示してある博物館が併設されているのでその様子をうかがい知ることが出来た。

 

↑出土品の宝石。宝石を心という文字にちりばめてある。比較するものがないが

この心にはまっている宝石は結構大きいものだと思った。

 

↑王冠。きらびやかである。しかも精巧に出来ていた。

 

この定陵は万暦帝の墓でその没年は1620年である。今から約390年前である。

その当時から発掘されるまでの数百年の間あの地下宮殿に保存されて、

昔のままの形を保っているという事に感銘を受けた。

 

この定稜を見終わった後、長稜というもう一つの墓稜へ行くことにした。

 

定陵のバス停からバスに乗ったのだが、バスを間違えたらしく長稜のある方向とは

逆方向に向ってしまった。バスを慌てて降り、降りたバス停で反対方向のバスを待っていると

バス停には杖をついた老人が腰掛けていた。僕はその横で黙ってバスを待っていると

小学生ぐらいの子供が3人バス停へ来た。僕たちは何の会話も無くバスを待っていたのだが

子供の一人は先にバスにのり去って行った。次のバスが来た時に老人がヨロヨロ立ち上がり

乗ろうとしていたら、子供達が老人の手をとりバスに乗るのを手伝っていた。

 

僕は恥ずかしながらその光景を見ているだけであったが、子供達が老人をいたわっている

その姿勢が素晴らしいと感じた。そういえば、中国に来て思ったことだが、この国の人は

老人や子供には特に優しい。バスに乗っても電車に乗っても老人を見るや直ぐに立ち上がり

席を必ず譲る。幼い子供を連れたお母さんやお父さんが乗ってくると、こちらも直ぐに席を

譲る。こうした光景は旅の途中で数多く見かけた。

 

この国の旅を続けているうちに、益々この国のことが分からなくなっていった。

 

・火鍋

中国人の友達の楊君と、前に北京ダックを一緒に食べに行ったリンダとアニタと4人で四川火鍋を食べに出かけた。

北京でも有名なお店らしく店の前には行列が出来ていた。

 

この火鍋は要するに日本で言うしゃぶしゃぶのようなものなのだが、鍋には色々な味で食べられるように

鍋の中に仕切りを設けてスープを分けていた。

 

火鍋のことはTV番組で見たことがあり、日本人が感じる辛さとは次元が違う辛さだと聞いていたので

注文する時に辛くないスープを1つ入れてくれるように頼んだ。

 

↑手前が辛くないスープ。奥が辛いスープ。

 

手前の辛くないスープに肉や野菜を入れて食べるのは、本当に美味しかった。

醤油とも味噌とも違うマイルドなスープで食が相当進んだ。

 

僕が辛くないスープで美味しそうに食べていたからなのか、辛いスープで食べていた他の3人が、味見で

僕のスープにつけて食べたらあまり、なぜ僕が美味しそうな顔をして食べているのが信じられないようだった。

 

逆に、僕が辛いスープで食べたら、とてつもない辛さで、一口食べただけで毛穴が広がるのが分かり

汗も吹き出てきた。激震の辛さだった。

 

この激震スープをみんな汗もかかずに平気な顔で食べているほうが僕には信じられなかった。

 

肉や野菜が無くなってきて、店員に追加注文をするためにアニタが店員を呼んだ。

このブログで度々出てくる服務員というのは店員や乗務員その他労働をしている人のことを言う言葉

なのだが、この服務員という言葉は日本語で「フクムイン」というが中国では「フーユァン」と発音するらしい。

 

この服務員という言葉の発音が僕はとても気に入った。

中国人の発音する「フーユァン」という言葉に、どことなく優雅な感じがして仕方がなかった。

 

僕もこの言葉を使ってみたくて恥ずかしいながら、「フーユァン」と服務員に向って言ってみたのだが

服務員は僕に気づきもせず横を素通りしてしまった。何度、挑戦しても結果は同じだった。

 

楊君に何故僕が言うと服務員は立ち止まってくれないのか聞いてみたのだが、どうやら発音が

非常に悪いらしい。僕はアニタから教えてもらった「フーユァン」という発音がどうしても「フーヤン」としか

聞こえなかったのでその通り発音していたのだがそれでは通じないらしい。

 

何度もアニタとリンダ、楊君に発音を直してもらいながら「フーユァン」と呼んでみたら、やっと立ち止まってくれた。

なんだか達成感のようなものが湧いてきたが、中国語の発音の難しさがよく分かった。

 

中国語は「マー」と発音するのにも4種類あって「マー→」「マー↓」「マー↑」「マー↓↑」と語尾が変化して

それぞれ意味が全く違うようである。

 

この発音の違いが終始、僕には全く理解できなかった。

 

中国語を使っている人口は第二外国をとして使っている人口を含めて14億人いて世界一話されている言語

のようだが、これが世界共通語である英語に変らなくて良かったと心底感じた。

 

中国語は非常に難解である。

浮浪雲~中国 (五)

・万里の長城

中国へ旅に行くことが決まる以前から万里の長城にはどうしても行きたい場所だった。

万里の長城は現地で「長城」と呼ばれている。その長城の全長は6,000Kmを越えている。

宇宙からも確認できる世界遺産として有名になったのもこの長城である。

長城の建設は秦の時代だから始まったのだが、現在の長城はほとんどが明の時代に築かれたもの

のようである。

(Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E

 

YH(ユースホステル)にも長城行きのツアーの予約を受け付けていたが僕はローカルバスを利用して行く事にした。

朝、YHを出て地下鉄を乗り継いで長城行きのバスが出る徳勝門のバスターミナルへ向った。

どのバスに乗れば長城まで行けるのか分からず、無理だと分かっていても英語で現地の人に話しかけたが

案の定、いつものように嫌な顔をされた上に中国語で捨て台詞のような言葉をかけられてしまった。

 

ともかく、バス停の看板に書かれている行き先を確認して長城行きのバスを探すことにした。

何箇所か回って見てみたのだがどうやら「919」という番号のバスに乗ればいけるようであることが分かった。

ところが、このバスターミナルには919と書かれたバスが無数に存在していてどのバスに乗ればいいのかや

どこが正式な乗車場なのかサッパリ分からなかった。

 

丁度、パラリンピック期間中だったのでバスターミナルの脇に英語の案内をする案内所のようなスタンドが

あったのでそこで聞いてみることにした。

 

「長城に行くのは919のバスで間違いないですか?」っと聞くとボランティアの男は頷いた。

「乗車場はどこにありますか?」っと聞くと「あっち」っと指をさし教えてくれたのでその方向に歩いていくと

バスは全く無かった。そこでまた英語の話せそうなツアーガイドがいる観光バスに近づいていって乗車場の

場所を聞いたが今度は「向こうの方」っと言われた。そんな調子で3,4回あしらわれた後、自力でやっと乗車場を

見つけることが出来た。結局、あっちだとか向こうだとか言っていた場所とは全く違う場所に乗車場はあった。

もう、この頃になると中国人のいい加減さに呆れて怒る気にもなれず、ただタメ息をつくだけだった。

 

とにかく、バスはみつけたのでチケットを買って乗車。長城の「八達嶺」という場所まで12元(192円)。

エアコンつきのバスで中国語のみを喋るガイドが一人乗車していてバスが走り出してからひたすら

中国語で長城の説明のようなことを喋り続けていた。僕は一番前の席に座り流れ行く北京郊外の風景を

眺めていた。

↑高速道路を走る。北京はその中心部は都会だが車で30分も走ると本当にのどかな風景が

 広がっていた。

 

↑1時間ほどバスに揺られて八達嶺に到着。

 

↑八達嶺の入り口。この門をくぐってチケットカウンターでチケットを購入したが

 40元(640円)のところ国際学生証を提示したら半額の20元(320円)になった。

 北京では学生証の威力絶大だと実感した。

 

 

↑八達嶺長城の出発地点。ずっと昔から行ってみたかった場所に今たっていると思うと鳥肌が

 たってきた。

 

↑長城を歩き始めたが、とにかく人が多かった。

 

↑以前、日本の女子大生がイタリアの聖堂に落書きをしたというニュースが流れていたが、

 この長城ではいたるところにマジックで落書きどころか自分の名前と訪問年月日を石に掘り込んであった。

 しかも長城の壁一面に掘り込みがあり、掘り込んでないブロックを探すことの方が至難の業だった。

 

↑天気も良く長城からの景色は最高だった。長城は延々と続いているが、この写真の左上の塔で

 みんな折り返していた。

 

 

↑これがその塔。ここからの見晴らしは良かったが人だらけで大変な状況だった。

 みんなはここで折り返していたが僕は折り返さず歩いていけるところまで行こうと

 思ってそのまま通り過ぎた。

 

↑通り過ぎると今までの混雑が嘘のように人がいなくなって、ゆっくりと歩き風景を眺めることが

 出来るようになった。

 

↑この写真に写っている人たちはみんな下っているのだが、あまりにも急勾配で

 手すりを持ちながら降りないととてもじゃないが歩けない状況だった。

 昔、この長城を馬が通ったという話しをどこかで聞いた事があったがこの坂をどうやって

 馬が歩いたのか不思議でしょうがなかった。

 

↑長城の塔の中。軍事目的に作られた建物だけあって堅牢に作られているのがよく分かった。

 

↑写真中央の奥からずっと歩いて来たのだが左下の長城の傾斜がきついことが

 この写真でわかるのではないだろうか。

↑相当歩いて来たが、ここまで来ると人は僕一人しかいなくなっていた。長城を独り占めしているようで

 気持ちが良かった。それからお気づきだろうか。実はこの長城の左側が外側、右側が内側である。

 左側は弓矢を放つ為に壁を切り高くなっているが右側は低くなっている。

 この長城の左側は昔、領土外であったことが分かる。

 

↑長城の終点。ここまでが人が立ち入ることの出来る限界である。

 

 

↑終点からの眺め。この距離を僕はテクテク一人で歩いてきたのだ。

 

僕の祖父は大日本帝国陸軍の兵士だった。今から68年前、当時23歳だった祖父は大阪から

中国の青島へ船で渡り、徐州、開封と転戦し、満州へ引き上げる時に汽車でこの長城を越えたと

帰国した時に話してくれた。その時の印象を聞いてみたのだが夜通過したらしくよく覚えていないといっていた。

祖父が通過した長城と僕が今たっている長城とは多分違う場所なのかも知れないが、

祖父が戦時中である68年前汽車で通過した長城を、68年後の今、孫の僕がそこに立っている。

祖父と自分が時代を経てここで繋がった気がした。祖父と長城の話や中国の話をすることが

出来たことが僕は嬉しかった。

 

終点からの眺めを座ってしばらくじっと見ていた。「竜が横たわっているかのようだ」とはよく言われる

表現だが全くその通りだと感じた。この長城は数千年前に作られ今でもここに存在している。

僕がここに訪れたのはその数千年の内のほんの一瞬でしかないと思うと、歴史の長大さを感じる。

この長城はきっと数千年の歴史の中でその時代時代の人々を見てきたはずだと思う。

僕は中国の旅を続ける中で色々な苦しみを味わったし、色々な悩みを抱えていた。しかし、長城に

立つことをずっと夢に見てきて実際にその場に来てこの壮大な風景を見ていると悩みなど

どうでもよくなってきた。僕にそう思わせる力を与えてくれた気がした。

そしてこの景色には人を感動させ人の小ささも教えてくれる気がした。

この場所に来て僕は本当に良かったと思った。中国に来て良かったと心底思えた。

 

・盧溝橋

この橋の名前は誰でも聞いた事があるはずである。日中戦争の引き金となった場所で、中学校や高校の

歴史の教科書には必ずといっていいほど出てくる名前である。この盧溝橋の前には宛平城があり、その中には

抗日戦争記念館がある。僕はその記念館にどうしても行きたかった。

 

僕は日本人である。過去の歴史の中で日本人が中国と戦争を行い国を侵略したことは事実である。

時代がそういう時代であったといえばそれまでだが、いずれにしても人を殺しあった歴史があることは

事実である。しかし、日本と中国でもその歴史認識には大きな違いが存在していることは周知のことで

あると思う。一方は植民地として支配した側、そして支配された側。そしてその後、敗戦国となった側と

戦勝国となった側。歴史は複雑で双方の考えかたら受け止め方があるから理解しあうことは非常に難しい

ことだと思う。

 

ただ、僕は事実を知りたかった。日本にいて日本のメディアや本から得られる情報はどうしても日本寄りの

内容が多く事実を伝えているかと言うと疑問が残る。かといって中国の言い分も全てが事実かというと

それも信憑性にかける気がする。

 

自分の目で実際に確かめた事ならば、多少なりとも事実を知るきっかけになるはずだと思ったため、

この場所に来ることを計画していた。

 

↑宛平城の入り口。この門をくぐると観光地らしい店並があったが観光客は僕一人ぐらいで

 他は地元民が行き来しているだけであった。

 

↑中国人民抗日戦争記念館。

 

↑抗日戦争の歴史を写真を交えて紹介してある。普段、どこの博物館や観光地へ行っても

 音声ガイドを借りることは無かったが、ここではより理解する為に音声ガイドを聞きながら

 館内を歩いた。

 

↑当時使われていた銃を展示してあった。

 

↑来館者は全くといっていいほどいなかった。どこの観光地や博物館に行っても中国人がいない所など

 今までなかったのに、自国の負の歴史に関しての展示物には関心がないのであろうか。それともたまたま

 いなかったのか。

 

↑このブログにこの写真を載せるのを迷ったが、事実は事実として載せるべき他と思ったので

 あえて載せた。南京大虐殺の時の街の光景を写した写真。中央は殺害された市民。左の写真は

 子供が一人ぼっちで残された写真。左は焼尽くされた建物。

 写真はその当時の光景を事実として残すものであると思う。この写真の中に写っているものは

 紛れもない事実であると思う。

 以前、広島にある平和記念館に行ったときにもこれと同じ光景の写真を見たことがあるが、

 戦争によって引き起こされるあらゆることは悲惨であると感じた。そして今も世界のどこかで

 これと同じ光景が起きていることを我々は知らなくてはならない。

 

↑村山富市元総理が残した書。

 戦後50年を記念して村山元総理がかつての侵略、植民地支配を公式に謝罪し、

 現在の日本国政府も公式な歴史的見解としている。

 

↑抗日戦争記念館を出て盧溝橋へ。橋のたもとには石碑がたっている。

 

↑橋は1192年に建設されたもので、橋には形の違う獅子が501体ある。

 

↑盧溝橋の側面。キレイなアーチを描いた橋であることが分かる。この川の両岸で

 日中両軍が対峙し日中戦争が勃発した歴史的な場所である。

 

前にも書いたが、この国の歴史を考える上で日本の歴史も大きく関与していることを

盧溝橋に来て感じた。故宮博物館に行ったときにもそれを感じたがこの場所を訪れてみても

同じ事を感じ同じく複雑な心境になった。

 

戦争をした歴史は修正することは絶対に出来ない。起きてしまったことや犯してしまったことを

後悔してもどうすることも出来ない。しかし、事実を出来るだけ正確に把握し理解することは

お互いにとって大切なことだと思う。戦後64年が経ち戦争を戦い抜いた方たちは少なくなってきているが、

僕は戦争を戦った人たちから直接当時のことを聞きたい。真実はどうだったのかと。

その真実を聞くことが現在の日本に生きる我々の使命であるように思う。

 

・頤和園

北京には世界遺産に登録されている建物が故宮、万里の長城、天壇、明十三稜、周口店猿人遺跡、

そしてこの頤和園(いわえん)と全部で6つあり、僕はこのうち北京滞在中に周口店猿人遺跡以外は

全て訪れた。

 

頤和園は1750年に清の乾隆帝が造営したのが始まりでその後増改築を繰り返したが、清王朝末期の1860年に

英仏連合軍に一度破壊された。その後、1888年に西太后が再建したのだが、その再建費用は当時の海軍の

年間経費15年分に相当する額だった。その結果国家を防衛する為の海軍予算に支障をきたすようになっていった。

さらに、1900年に8カ国連合軍によって再度破壊されてしまう。そしてまた再建。西太后はこの頤和園に愛着を

持っていたらしく1年の3分の2をこの場所で過ごしたといわれている。そのために破壊されても再建をくりかえしたの

である。

(Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%A4%E5%92%8C%E5%9C%92)

 

この頤和園はガイドブックに載っていたが僕はそれほど行きたいとは思っていなかった。むしろ北京滞在中に

時間が余ったので行こうと思ったぐらいの場所だった。

 

頤和園に行こうと思って出かける前日の夜にガイドブックを読んでいると、市内の大きな公園からボートで川を

登りながら到着できるように書かれていた。ちょっとしたクルージングを味わえるのではないかと思い翌日は

ボートで頤和園を目指すことにした。

 

朝起きて予定通り公園へ行き、ボートに乗ろうとしたら98元(1,520円)取られてしまった。

98元といえば今回の旅では大金である。僕は旅行中の普段の食事は1食20元ぐらいで抑えていたので

その5倍という事になる。しかも、バスで頤和園に行けばその20分の1ぐらいの値段で到着できるのだ。

 

断っておきたいのは、僕は決してケチではない。日本で生活していて1,600円なんて月に数回ある

大学のコンパや友達との飲み代の半分ぐらいの金額である。出し惜しみするような金額ではないのである。

ただ、旅に出るとたった1元(16円)ですら余分に取られたりすることがまかりならなくなるのである。

それは旅をするのにその予算にリミットを設定してあるためである。

 

しかし、すでに公園に到着してしまったし朝YHを出る時間も遅かったので今更不快な思いをしてバスを探して

頤和園まで行くのが面倒になってきてしまった。料金は高いがきっとそれに見合うだけのクルージングが待っている

ハズだと思い98元を支払い船の出発を待つことにした。

 

↑クルージング用ボート。オープンデッキだとばかり思っていたらタダのボートだったのでガッカリだった。

 

↑市街を流れる川をただゆっくりと上っていくだけ。途中でおじさんが釣りをしていたり

 泳いでいたりクルージングとは程遠い代物だった。

 

↑1時間ほどで頤和園に到着した。頤和園の入り口にある玉帯橋。中国らしい感じがする。

 

↑十七孔橋と南湖島。その奥に万寿山があるのだが残念ながらこの日は霞がかって

 よくみることが出来なかった。

 

↑清晏舫という船をかたどった建物。面白いのは船に外輪が取り付けられているところ。

 1860年に英仏連合軍に破壊された後、再建したときにフランスの遊覧船の外観を

 取り入れたようである。

 

↑万寿山に建つ仏香閣。頤和園のシンボル的存在。目の前まで行くととても大きい建物で驚いた。

 

↑頤和園の建物に施されていた塗り物。下が古いもの上が修復後のもの。

 

↑仏香閣からの眺め。景色がよく湖の広さが分かる。

 

↑ここでも神獣が屋根に乗っていた。あの神獣をもっと近くでよく観察してみたいと思うのだが

 屋根の上に乗っているので出来なかった。

 

↑蘇州街。乾隆帝が江南地方にある蘇州の町を大変気に入ったらしく蘇州の街並みを頤和園の中に再現したもの。

 この蘇州街の雰囲気が好きだった。レストランによって昼食をとったがレストランの料理は悲劇的にまずかった。

 カップラーメンの方がまだましだった。

 

↑蘇州街の一角。森があり、街があり、水があり、蓮の葉が覆っていて雰囲気がよかった。

 

↑仁壽殿。僕の名前と同じ漢字の建物に驚いた。皇帝が政務をとる建物だったようで乾隆帝の時代には

勤政殿という建物だった。1888年に再建されたときに仁壽殿と名づけられ西太后や光緒帝が外国公使と

接見した場所だという。

 

↑なにか建物の由来や機能に自分との縁を感じてしまった。

 

↑昆明湖。右に見えるのが仏香閣。天気がよければ素晴らしい景色を見れたはずなのに

 残念で仕方がない。

 

頤和園を歩いてみてその広大さに驚かされた。僕が滞在したのは5時間ぐらいであったが

駆け足で見て回ったので一つ一つをじっくり観察することが出来なかった。

湖があり森があり生命感があふれるこの場所を避暑地として利用していた西太后の気持ちも

少しは分かる気がした。

 

中国に来て色々な場所を訪れて思うことはとにかく広い。日本の京都は狭い敷地に神社仏閣が

立ち並び敷地内の移動はさほど苦労はしない。中国は1つの場所を見て回るだけで1日を要し

歩き回るだけで一苦労である。

 

国土の大きさの違いも歴史の長さも違う、そして人としての価値観も違うこの国で僕は苦労している。

しかし、それは日本人的な価値観を彼らに押し付けて比較しようとしていることこそが、そもそも

おかしい事なのではないかと旅を続けているうちに思うようになった。

 

中国は細かいことを気にせずいい加減なことをしても、それが許される国でありそれを受け入れている国

なのだ。そしてそこで人は生活し人生を歩み続けている。それを良いとか悪いとかと判断を下すのは

自分の価値観であり他人を受け入れないという身勝手な考え方なのだと感じつつあった。

 

人は人、自分は自分、中国は中国、日本は日本。それぞれ良い所もあれば、悪い所もある。

今までの世界中を旅して、楽しんできた様に、中国を楽しめていなかったのは中国を受け入れようとしなかった

自分が悪いのだと思う。

 

そう思わせてきたのは自分がこの中国の旅でまた少し成長できたことのあかしではないかと思えた。

浮浪雲~中国 (四)

北京 2008.9.4-2008.9.13

・紫禁城

電車で早朝の北京に到着してジェームスと別れた後、YHにチェックインした。

 

北京での宿は上海と同様にインターネットで事前に予約をしていた。

Hostels.comというWEBサイトでは世界中のYH(ユースホステル)やバックパッカーを検索できる

便利なWEBサイトである。

 

5人部屋のドミトリーで1泊50元(800円)。

王府井青年旅舎というYHで繁華街の王府井や天安門も徒歩で移動でき、地下鉄の駅も徒歩3分ほど

だった。とても便利な立地に条件にこの価格なのがビックリだった。

 

荷物を置いてベッドに横になったが電車でグッすり寝てしまったせいで全く寝れなかった。

 

とりあえず、外に出て早朝の北京を歩くことにした。

 

地図で見るとYHから天安門までは非常に近く感じた。しかも紫禁城も3ブロック先にあったので

出かける準備をしてYHから出た。

 

北京の街は上海よりも開放感があった。高層ビルが立ち並んではいるものの空が広く感じた。

道路も広い。一説では北京の道路は有事の際は戦車が通らないといけないので道を大きくとってあると

聞いたことがあった。

 

天安門までは歩いて20分ほどで到着した。

 

天安門には既に大勢の観光客がいて、ごった返していた。

門の真ん中には毛沢東の肖像画が飾ってあった。よくテレビで見ていた光景が今自分の目の前にあることに

興奮してしまった。なんとなくだが、思ったほどその肖像画は大きくないと感じた。

門には衛兵が立ち道行く人の脚光を浴びていた。

↑天安門。人が少なくなるのを待ってシャッターを押したがそれでも門の前には

これだけの人がごった返していた。

 

↑天安門から天安門広場を望む

 

天安門事件という言葉を聞いた事がある人も多いと思う。

1989年に民主化を求める学生のデモ隊に人民解放軍が無差別に発砲して自国民を

殺害した事件である。

 

この事件のことを僕は子供ながらにTVで見た記憶があるが、この天安門広場こそが

その事件があった当地であるった。

 

今でこそ平穏で観光客が往来する場所であるが約20年前にはここで悲惨な出来事が

あったことを思い出した。

 

その後、天安門を潜り抜けて紫禁城を見に行くことにした。

 

紫禁城とは故宮とも呼ばれている中国の歴代王朝の皇帝が住んだ王宮である。

元々は「元王朝」が作ったものを「明王朝」の永楽帝が1406年から改築し1421年から南京から

北京へ遷都して以後、清王朝滅亡までの間王宮として使われてきた場所である。

(Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E

↑「午門」は故宮の正面入り口。この門は巨大で圧倒されてしまった。

この横でチケットを買ってから入場するのだが、国際学生証を提示したら

60元の入場料が20元になった。

 

↑門を守る「こま犬」精巧に作られている。日本にあるこま犬や沖縄のシーサー、それにこのこま犬などは

遠くエジプトのスフィンクスを真似て伝来したものという説があるが真偽は分からない。

 

↑太和殿。映画「ラストエンペラー」や「HERO/英雄」でも出てきた場所。

 僕は昔見たラストエンペラーでのシーンが強烈に残っていてこの場所にこれたことがとても嬉しかった。

 

↑韓国の水原華城の屋根にも乗っていた神獣。中国から伝来したものだと思うのだが

中国と韓国の建物は通じるものがあるのだと感じた。この神獣の多さで建物の格式が

決まっているとの事。

 

↑宮殿に登る階段には彫り物をしてあったが、こちらも精巧に出来ている。

以前、カンボジアのアンコールワットへ行ったことがあったが、あそこでは人目に付かないところは

彫り物が簡略化して掘ってあったが、中国では歴史や伝統が長いせいかどこもかしこも精巧に

出来ていた。

 

↑清王朝最後の皇帝「溥儀」の写真

 

↑上の写真と同じ場所の「天一門」写真を撮った。

 

↑溥儀が当時使っていたものを展示してある。

 

↑溥儀が過ごした部屋。

 

清王朝最後の皇帝「溥儀」については日本人として思うところがある。

清王朝や溥儀の人生において我々日本や日本人が犯した罪は大きいと思うからである。

日本軍により満州国の皇帝に祭り上げられ、日本が敗戦するとソビエトで強制収容所に

収監され、その後も母国であるはずの中国でも戦犯として収容されている。

 

「時代がそういう時代だったのだ」と言ってしまえば終わってしまうが、僕はこの場所を訪れ

彼の写真や所蔵品を見たとき日本人として複雑な気持ちになった。

 

その当時の歴史認識や歴史観については日本人と中国人でズレがあるように思う。

以前、中国人の友達と細かいことは議論しないが、少しだけ戦争について話をしたことがある。

 

 「日本は戦争で多くの中国人を殺し国を侵略した。戦後半世紀以上も経っているのにも関わらず

 侘びの一言も言っていない。」

 

っと言われたことがある。

 

日本では村山政権の時に政府見解として戦争について謝罪を行い、その後の政府もそれを踏襲している。

政府として謝罪を行ってはいるが中国国内でそれを正確に報道し広く国民に知らしめているとは思えなかったが、

その中国人の友達から聞いたことでそれが現実であるような気がした。

↑歴代皇帝の肖像画が飾られている。この肖像画の中でも乾隆帝の肖像画が僕は一番好きだった。

 

↑皇帝の服。清王朝は元々満州からやってきた民族でこの衣装は満州族の衣装のようだった。

 

↑故宮は博物館といわれているだけあって、展示物の多くは非常に興味深いものがあった。

 これはその1つだが金で細工した壺のようなもの。間近で見るとその精巧さが分かる。

 

↑故宮の中は未だ改装中のところが多くあり資材もおきっぱなしになっていた。

 

↑神武門。故宮の裏門でこちらの門の上には故宮博物館の文字が掛けられている。

 

故宮を見て回るのはとても体力が要った。敷地も広大な上に建物も多く半日で回るには

広すぎた。しかし、城内の建物はどれも黄色の屋根に赤い壁、白い階段と建物の大小はあるのだが

どれも同じ建物に見えてしまった。

 

この故宮も世界遺産に登録されているものなのだが、今まで僕が海外で見てきた世界遺産、例えばマチュピチュや

アンコールワットやアユタヤなどとは違った感覚を覚えた。それは先述したとおり我々の歴史と無関係ではないため

であると思った。

 

この故宮博物館にある宝物は93万点におよび、アメリカやヨーロッパの博物館にも収蔵されている。

または台湾の故宮博物院には63万点の宝物が収蔵されているとの事だった。

ちなみに東京国立博物館の収蔵品数は約11万点で故宮博物館の収蔵品の多さが分かる。

 

故宮博物館の神武門を出て道を挟んで反対側は景山公園となっていた。ここも有名な観光地の1つで

山に登ると故宮を一望できるとのことで、疲労と靴ズレに悩まされても登ることにした。

 

↑景山公園の入り口。山の上に見える建物が万春亭。

 

↑万春亭からの故宮。絶景だった。今まで歩いて回っていた場所がここからは一望できて改めて

故宮の広さを感じることが出来た。またこの場所から北京市内を360度見渡すことが出来たが

上海よりは北京の方が街並みが好きだと感じた。

↑故宮、景山公園の北側。カスミがかってよく見えないが今の北京の大気汚染を象徴した

風景なのかもしれない。

 

故宮や景山公園を歩いて回ってみてとにかく広いと感じた。中国は大陸で大きい国だと思っていたが

北京の街を実際に歩くことでより理解できた。

例えば、地図で見ると1ブロック先の場所までの徒歩直ぐだろうと思って移動すると、これが想像以上に

時間が掛かったことでもよく分かった。

北京ではバスは勿論地下鉄も路線が結構走っていて便利な街だと感じた。しかも利用料は格段に安い。

バスの運賃は2元(32円)、地下鉄の運賃も2元だった。所得の違う日本の公共交通料金とは比較は出来ないが

この安さにはビックリした。

北京での移動は徒歩ではなく交通機関を利用するほうが無難だとそう思った。

 

・王府井

宿泊しているYHの直ぐそばには北京一の繁華街といわれている王府井(ワンフージン)という場所がある。

実際に歩いてみても広い通りにデパートや飲食店が立ち並び、通りの脇や中央にもちょっとしたバーが

並んでいた。ヨーロッパスタイルというかそんな感じのバーが並んでいることで欧米人が多く酒を飲んでいた。

 

この王府井には北京滞在中に夕飯を食べたり飲みに行ったりと毎日訪れていた。レストランで食べるよりも

安くご飯を食べられる店も多くあったからなのだが、何より僕はこの華やかな感じがする夜の街になんだか

ワクワクした気持ちが込み上げてきて王府井を歩いているだけで楽しかった。

↑王府井のメインストリート

 

この通りを歩いている人は観光客、パラリンピック開催中だけあってパラリンピック出場選手やその関係者など

が多くいた。当然ながら中国人の通行人も多くいたが彼らの服装は今風といったら変な言い方なのかもしれないが

裕福な感じがする格好をしていた。

 

NHKの番組で放送されている中国の実情を取材したドキュメンタリー番組で見る民工の現実や農村の住民などを見て

いると、この通りを歩いている中国人が別人のように感じてしまう。

インターネットで調べたところによると、中国人の平均月収は北京や上海の大都市で2,000-3,000元(32,000-48,000円)で、

国全体では1,000元(16,000円)以下のようである。

中国では中流階級が少なく、一部の超高額所得者と超低額所得者とで社会が二極化している。

道路を走っている車を見るとポルシェやBMW、ベンツ、VOLVOなど日本でも有名な欧州車が走り回っている。

特にポルシェの高級SUVであるカイエンはよく見かけた。

 

中国の沿岸部である北京、上海、広州、大連などに住む人と内陸に住む人では所得差がかなりあることは周知の事実で

あるが、沿岸部の大都市である北京や最初に言った上海に住む中国人がこれほどまであったことに改めて驚いた。

 

↑王府井小乞街入り口

この通りは飲食店や土産屋が並ぶ通り。

 

 

↑左右の店はどれも食べ物を売る店。値段は2-20元(32円-320円)ぐらいの間がほとんどであった。

 

↑串焼き屋の陳列棚には牛肉、豚肉、鳥肉、羊肉など様々であったがサナギやサソリ、タツノオトシゴもあった。

 

↑これはサソリ。食用のものだとは思うが串に刺さっているがまだ生きていた。

この店の前で串を食べていると欧米人の旅行者が焼いたサソリの串を食べ写真をお互いに撮っていた。

旅をしていていつも思うことなのだが、この辺の好奇心は欧米人独特のものなのだろうか。

 

 

↑これは果物に飴をかけた食べ物。ブドウやリンゴ、メロンなどがあったがメロンが一番おいしかった。

 

↑飲食店街の奥には土産物屋が立ち並ぶ。

友達に土産を買おうと思い何がいいか通りを歩きながら物色していると携帯のストラップがあった。

荷物にもならないし数も多く買えると思ったので早速値段の交渉をしてみることにした。

 

値段を聞くと1つ25元(400円)だと言う。当然、この値段は旅行者用の価格であることは分かっているので

こちらは1元(16円)というと、店員が呆れ顔で15元(240円)と言ってきた。25元から15元へ10元を直ぐに

下げられるなんて相当吹っかけてるな思った。

こちらはとにかく1元を押し通そうとしてとにかく1元以外は言わなかったら最終的には5元(80円)まで

下がったが1元から一歩も引く気配がないと店員が判断したのか嫌々ながら最後には2元(32円)で

何個買うんだという話まで持っていった。内心「ざまーみろ」と思って10個と言ったら店員はさらに呆れ顔を

していた。ここで今まで溜まっていた中国対するフラストレーションを少し発散できた気がした。

 

これで相当額値切れることが分かったのでこの通りを歩き欲しい物があったらとにかく10分の1以下に

値切ることを目標に交渉をすることにした。

 

しばらく歩いていると店の奥から

 

「ヤスイヨ!ヤスイヨ!ヤースイ!」

「トモダーチ!!」

 

と調子よく声を掛けてくるおじさんが出てきて、さらに

 

「ガンバレ!ガーンバレ!」

 

と、わけのわからない日本語を話しだしたので面白くなってきてこっちも日本語で話しかけると、知っているのは

「ヤスイ」と「トモダチ」「ガンバレ」しかないらしく後はニコニコ笑っているだけだった。

 

この通りにおいてある土産物の中で数年前にタイに行った時に露店で売っていた手が動く招き猫が

ここでも売っていた。もともと中国で生産されていたものなのか、それともタイで生産されていたものなのかは

分からないが国を越えて土産物屋の店頭に同じものが並んでいるのがおかしかった。

 

・北京ダック

僕には中国人の友達で楊君という人がいる。

彼とはバイト先が同じで丁度僕が中国へ行っている時に彼も中国に里帰りをしていた。

故郷は洛陽という場所なのだが僕が「北京で会おう」と誘うと彼も予定を合わせてくれた。

 

北京に僕が到着して翌々日に楊君と再会した。

楊君にあった途端に上海や北京で遭遇した事件の数々を話たが、彼は笑いながら

「だから、中国は気をつけたほうがいいよって言ったよ。」っと言ってくれた。

そういえば日本を出る前に楊君は僕が一人で中国を旅することをしきりに心配していたのを思い出した。

僕はと言うと今までだって一人旅は何度も出かけて慣れているので心配ないと内心思ってたので

彼の心配は過剰なものだと信じて疑わなかったが、彼と会った瞬間に自分の過ちを認めざるをえなかった。

 

ともあれ、楊君と北京で再会したので一緒に夕飯を食べに行くことにした。

アニタという楊君の従兄弟の女の子が北京で仕事をしていて、楊君、アニタ、それからアニタの友達のリンダという

4人で北京でも有名な北京ダックの店に行くことにした。

 

↑大柵欄という場所の近くで街頭も何もない住宅街の片隅にある北京ダックの店。

あたりも暗く入り口も狭かった。一人ではとてもたどり着けそうもない場所だった。

 

 

↑店内はサッパリとした感じだったが、中国人よりも欧米人の客がほとんどだった。

 

↑北京ダックを早速頼んだらテーブルの横で焼いた北京ダックをさばいて盛り付けてくれた。

 

↑出来上がった北京ダック。

 

北京ダックは10年以上前に1回だけ食べたことがあるがそれ以来だったので味はもう忘れていた。

食べ方をアニタとリンダに教えてもらったが、春巻きの薄皮みたいなものに北京ダックと野菜と

甘味噌みたいな物を巻いて食べるのが食べ方のようだった。

 

最初の2、3個は美味しく食べられたがそれ以上食べると油っこくて美味しいとは感じられなくなった。

この食べ物はそうそう沢山食べるのもではないのだと感じた。

 

日本で言う中ビンビールを何本か飲んだが1本18元(290円)上海の新天地というところで中ビンのさらに小さい

ビンビールが40元(640円)だったことを考えると安いと思ったが、楊君曰く「ここでビールは高すぎるよ」と言っていた。

確かに、コンビニでビールを買うと1本数元で買えるのでごもっともな意見だった。

↑この写真を見て中央にいる方が誰だか分かるだろうか。アメリカのヒル国務次官補もこの店を

訪れて北京ダックを堪能したようである。北朝鮮を含む6カ国協議期間中に来店したのだろうか。

そのほかにも、ジェット・リーや有名人の写真が壁一面に貼られていた。

 

地元の人の知り合いがいるとガイドブックには中々載っていない場所に連れて行ってもらえるので

嬉しい限りである。

 

北京ダックの店を後にしてからタクシーで前海という池があるところへ出かけた。

ここは池の周りにオープンカフェやレストラン、バーやクラブが立ち並ぶ繁華街のような場所で外国人や中国人など

色々な人が沢山いて賑やかな感じだった。

 

歩いているとジャズクラブがあったのでそこに入ることにした。2階にあるガラス張りの店で窓越しに池の周りの

賑やかな雰囲気が伝わってきた。店内ではチャージが無く飲み物を頼んだら後は時間無制限で居たい放題で

しかもジャズの生演奏つきだった。飲み物も安く1杯20元(320円)だったし、ピアノ、ドラム、ベース、サックスと

4種類の楽器で演奏していたが最高によかった。

日本でこんな店にもし行こうとしたらいったい幾ら払ったらいいのか分からないようないい店だった。

 

楊君と再会して久々に日本語を話したこともあったし、おいしい料理やジャズの生演奏も聴けたし、この夜は

中国に来てとても楽しい夜になった。

浮浪雲~中国 (三)

・水郷の景勝地 周荘

上海からバスで1時間数十分の郊外には東洋のベニスと言われる水郷の町がある。

明代の街並みの中に水路が入っていて風光明媚な場所という情報をガイドブックから仕入れていた。

上海の滞在も段々やることがなくなってきて退屈になってきたのでその水郷の町である

周荘という場所へ行くことにした。

 

周荘へ行くにはJTBが主催する観光バスに乗るか、上海旅遊集散中心というところから出発する

中国人向け(!?)の観光バスに乗るか、それともローカルバスを乗り継いで行くかのいずれかである。

 

JTB主催の観光バスは予算が合わず、ローカルバスに乗っていくのが一番安上がりだが

悪しき言葉である「没有」を連発され気分を害するのが落ちであるので、上海旅遊集散中心から観光バスに

乗るのが予算的にも最良な選択と思えた。

 

上海旅遊集散中心へ行きチケットカウンターで周荘行きのチケットを買おうと英語で話しかけると

毎度毎度の無愛想な対応でチケットを売っていただけた。バス乗り場がどこかと聞いても「あっち」っと

言うのみだった。あっちと言われる場所へ行ってベンチに座って待っていてもバスは来ない。

電光掲示板には出発時刻5分前という表示が流れていた。それに周りには乗客らしい人は見かけない。

 

おかしいと思い外に出てバスを探したら、バス乗り場はあっちのさらにあっちにあってカウンターの服務員が

教えてくれた場所とは全く違う場所にバスが待っていた。

 

またこれだ・・・っとうんざりしてしまった。

 

とにかく、バスに乗り込んだがバスは新しく乗り心地もよかった。

観光バスにはガイドが付いてきたが、このガイドはバスが走り出したとたんに大音量のマイクを使い

中国語で20分間ノンストップで何かを話していた。多分周荘のことを話していたのだと思うが、僕にはその1%も

分からなかった。

 

バスは上海の郊外を走りのどかな田園風景も見られた。上海は都会だが少し郊外にでると緑が多い田舎

があるんだな~っと思うと少し嬉しくなった。

 

そして、周荘へ到着。

 

ガイドはまた喋りだした。

 

最後に僕の方を見て「4:30」っと英語で言ってバスの床を指差していた。

バスに戻る時間が4:30と言うことだと理解した。ガイドが話した英語はたったそれだけだった。

 

バス停から歩き周荘の入り口に向う途中に大きな橋がかかり、立派な塔や門が出迎えてくれた。

↑周荘へ行く大きな橋のたもとに立つ塔と運河。大きな船も行きかっていた。

 

↑周荘の入り口。立派な門だが最近作られたらしく歴史を全く感じなかった。

 

↑周荘の水路。とても風情があってよい観光地だった。

 

 

↑石橋。中国らしいというか街並みに橋が溶け込んでいる。

 

↑水路を行く船に乗船したが、船には僕しか乗っていなくて貸切状態。

 船頭さんも観光客慣れしているようで終始笑顔で僕の写真も撮ってくれた。

 

↑巨大な二枚貝。しきりに食べていけと進められたが、食べる気には何故かなれなかった。

 

↑周荘の中にある全福寺。ここは本当に静かな場所で観光客もほとんどいなかった。

 しばらく座ってずっと風景を眺めていた。

 

↑歩きつかれたので眺めの良さそうなこの建物の2階で休むことにした。

 

↑万三蹄という食べ物。豚のモモ肉を煮込んだもので日本で言う豚の角煮のような味がした。

この店で食べた万三蹄は80元(1,280円) だったが、土産物屋においてある同じ万三蹄が30元(480円)だった。

場所代と思えば仕方がないが、なんか納得できなかった。

あとはお茶はジャスミンティー。

 

↑お茶屋からの風景。中国の昔はこういうものだったのだと改めて感じた。

近代的な上海と周荘のこの風景のギャップが今の中国を象徴しているような気がしてならなかった。

 

周荘に建っている建物のほとんど全てはお土産物屋かレストランかいずれかだった。

街並みはや建物は明代のものでとても素晴らしいと思ったが、少しガッカリしてしまった。

 

パンフレットには周荘の夜景の写真が載っていたが、これはとても幻想的な雰囲気があった。

提灯に灯がともり水路にそれが写り月が出ている夜景に感動を覚えた。この夜景を自分の目で

見てみたいと思ったが往復のバスチケットを買ってしまったし、ここに一泊して翌日帰りたいと言うことを

中国語しか話さないガイドに直談判する気力は無かったのでしかたがなく諦めた。

 

しかし、心の中で周荘で遣り残したことがあれば、またここに来ようと思うきっかけを残しておくことに

なると思いそのまま周荘を後にした。

 

・食道楽

上海での食べ物といえば小籠包が有名だった。滞在中、小籠包は結構食べ歩いたが

味の違いは極端だった。美味しいお店は美味しく不味いお店は本当に不味かった。

ガイドブックに載るようなお店は当然美味しかったが値段もそれなりの価格で、

逆にその辺にある店で食べると不味かったが値段もこちらもそれなりの価格だった。

 

中国での食事で感じたことは、お金を出せば美味しい料理は色々食べられるが

お金を出さなければとことん不味い料理しか食べられない。

 

例えば、日本では高級料理は当然美味しいが、庶民が食べる料理も「これは食べられない。」と思うほど

不味いものはほとんど無く、値段の格差はあるものの味の格差はそれほど無いような気がする。

日本ではごく一部のお金持ちを除けば、国民の大多数は中産階級で生活に格差はほとんどない。

そのため、圧倒的に多い中産階級の舌をある程度満足させられない不味い料理など出そうものなら

その店は即淘汰されてしまう。

 

ところが中国ではお金持ちは日本の金持ちの遥か上の大金持ちで貧乏人は日本人の想像を絶するような

貧乏人で二極化している。中産階級の人が少ないために、お金を出せばいい食材を使って最高の中華料理を

堪能できるが、その逆ならば基準値の何百倍の農薬を含む食材をつかってでも最悪な料理を提供するわけである。

 

そんな中国で自分の舌にあったお店をコツコツ探しながら食べ歩いていた。

色々な店にであったが、その中の幾つかの店で写真を撮ったので紹介する。

↑YH(ユースホステル)へ帰る途中にあった串焼き屋。ここで串を焼いてもらいその隣の店で

青島ビールを買って外においてある椅子に座り晩酌。

 

↑2畳ほどの店に鉄板を置いて注文に応じて串を焼いてくれる。串の種類は牛、豚、ヤギ、鳥、野菜にイカ、

それから揚げた豆腐のようなものまで様々だった。価格は1~2元(1元:16円)ぐらいだった。

 

↑河南拉面館。日本語ローカル雑誌に載っていた中国式ラーメン店。

店内は汚かった・・・。

 

↑河南拉面館の牛肉面7元(112円)麺の上にのっているのは茹でた牛肉と香草。

僕は香草が苦手なのだが、「香草を入れないで」と中国語で言えるはずがなくご覧のとおり

山盛りのせられてしまった。スープも麺も美味しかったが淡白な味だった。

箸はビニール袋に入っているが異常に短くて細く食べづらかった。

 

↑新彊料理の店で食べた蒜苔炒肉盖淺面9元(150円)。これは美味しかった。

注文を受けてから店の前で麺を打ち始め直ぐに窯で茹でて熱々の具をのせて出てくるのだが

最高に美味しかった。甘辛いタレでニンニクの芽とピーマンと玉ねぎそれに牛肉を一緒に炒めた物が

上にのっている。

 

この他にも色々と上海では料理を食べたが、小籠包の写真は盗まれたカメラに入っていたのでここで

紹介することが出来ないのが残念である。

 

中華料理は油っこくて最初のうちは美味しいと思っていたが毎日食べていると飽きてしまう。

上海では日本料理屋が何軒かあり、例えば久光百貨店(そごう系列)のデパチカでは銀だこや

お好み焼きやカレー屋、うどん屋など日本料理店があったので胃を休めるには丁度よかった。

 

僕は海外旅行に行くと日本料理をほとんど食べたことがないし、今回の旅でも、せっかく中国にいるのだから

中華料理を食べないといけないと、半ば義務のように思えていたが中国では日本食が本当に恋しく感じられ、

何食も日本料理を食べてしまった。

 

自分の体力や気力が衰えてきたのか、それとも中国の旅が過酷なのか分からないが、中国では

今までの旅の経験が通用しなくなっている気がしてならなかった。

 

日本料理屋で日本食を食べながらそんなことを考えていた。

 

・深夜特急 北京へ

上海には元々長く滞在する気は無かった。

僕が世界を旅する理由は世界遺産を巡ることなのだが、上海にはそれが無かったのも理由のひとつだった。

しかし、それ以上にこの街をどうしても好きになることが出来なかった。人々は無愛想、不親切でモラルのなさや、

色々なものの理不尽さ、さらに英語が全く通じないところなど例挙すればきりがないほどである。

それにカメラを盗まれたこともそれに輪をかけていたのかもしれないが、とにかくこの場所から立ち去りたかった。

 

それに、自由気ままな一人旅だから入国から出国までの時間は自分ひとりで自由に決められる。

その自由さが僕は好きで旅は常に一人旅を続けている。なので中国に入国しても予定は未定状態で

明日は明日の風が吹くといった感じだった。

 

元々北京には行こうと思っていたがどの交通手段がいいか迷っていた。

バスか、電車か、飛行機か。

バスも電車も聞いた話ではチケットを取るのも至難の業で、さらに移動時間は長く特にバスは過酷極まりないと

言うほどだった。電車は座席の種類によって雲泥の差があり、種類は硬座→軟座→硬臥→軟臥の順によくなっていく

硬座と呼ばれる最低ランクの座席はビニール張りの座席で長距離移動は拷問に近いという話だった。

逆に軟臥という最高ランクの座席になるとクッションの効いた寝台ベッドの4人部屋で日本の寝台列車と変らないほどの

座席を与えられるとのことだった。

 

飛行機は移動時間が短い上に料金は電車の軟臥とほぼ同じ値段であった。

飛行機が一番いい移動手段のような気がしたが、急ぐ旅ではないし夜行列車でホテル代をうかせられるし、

日本でももちろん寝台列車には今まで乗ったことがなかったので電車での移動にすることにした。

 

しかし、この中国で電車のチケットを取ることの至難さは類をみず、特に中国語を話さない外国人が電車の

チケットを取ることなど不可能に近いといわれるほどだった。

電車のチケットカウンターの服務員はやる気が無く、何を言っても「没有」(ない)の一点張りで、客は客で

チケットカウンターに群がり横入りなど当たり前、列に並ぼうなんていう文明的な思考は皆無である。

 

たった数日間の上海滞在で理不尽な社会にウンザリしてクタクタに疲れた僕に、そのチケットを巡る戦場を

戦い抜く力はもうとっくに無くなっており、早々に戦線離脱を余儀なくされていいる。

 

結局、チケットはYH(ユースホステル)のカウンターで頼んだのだが、チケットが取れるまでに3日かかった。

何故3日掛かったのかと言うと、

初日は、夜にYHのカウンターでチケットを頼もうとしたら話も聞かずに

「今から連絡しても駅の窓口はもう閉まっているからチケットはとれない。明日またカウンターに来い。」

とのことだった。

駅の窓口が閉まっていたとしても、僕の話を今聞いて、それをメモしておけば明日また僕がこなくても

そのメモを頼りに駅の窓口に連絡してチケットを取ればいいのにと思い不審に思ったが、これが

中国のやり方なんだと思って諦めた。

 

翌日は言われた通り、朝街に出かける前にYHのカウンターへ行って軟臥の1つ下のランクである硬臥のシートを

頼んで、夕方戻ってきたときにチケットが取れたか聞いてみると、向こう数日間は既に満席だったので取れなかった

とのことだった。

 

ガッカリしたが仕方が無い。

とにかく一刻も早く北京に向けて出発したかったので、ここ1~3日のうちに北京に移動できる電車で、

出発時間はこだわらないから硬臥か軟臥のどちらかでチケットを取ってくれと頼んだら、翌日にやっとチケットが取れた。

 

↑これが3日間待ってやっと取れた北京行きのチケット。軟臥499元(8,000円)。

 

↑上海~北京行きの電車。この電車は長く僕が乗ったのは15両目の車両で連結されていたのは

20両以上はあったと思う。

 

↑19:44発北京行き。プラットホームには人はまばら。弁当や飲み物を売るスタンドもあった。

電車もきれいで各車両に一人づつ専属の服務員がついて案内をしていた。

 

↑車内も清潔。

 

↑4人部屋の室内。相部屋の人は全員中国人だった。向かいのベッドにはジェームス、その上にゾー、

僕の上のベッドには無口なおじさんがいた。

ジェームスとゾーは英語を話したので部屋ではおおいに話しに盛り上がりあって直ぐに仲良くなった。

2人とも北京の大学を卒業して今は上海で働いているそうだが、僕が体験した上海での出来事や

日本のことや、これから行く北京のことなど色々と話しているうちに夜も遅くなってしまった。

 

旅での醍醐味は、こうしたちょっとした瞬間に人と出会い打ち解け友達になったりすることだと思う。

 

↑車窓から見る北京郊外の風景。上海よりも空は青く新鮮な感じがした。

電車は予定通り定刻の7:05に北京駅に到着した。

 

ジェームスとは一緒に駅を出てタクシースタンドまで行った。僕が泊まる予定のYHは地図で見ると北京駅から程近かったので

歩いていこうとするとジェームスは出張先が通り道だからといってしきりに一緒に乗っていけと勧めてくれた。

僕は遠慮していたが、ジェームスは僕のザックを持ち上げてタクシーのトランクに入れてしまった。

申し訳ない気がしたが送ってもらうことにしたが、YHまで到着して思ったが駅からここまで歩いてくるのは結構遠かった。

きっとジェームスはそのことを分かっていたので気遣ってくれたのだと思った。

タクシーを降りるときも僕がタクシー代を払おうとしたら、かたくなにもらおうとはしなかった。

たかだか電車で出会った見ず知らずの日本人の僕のことを気遣ってくれたジェームスの気持ちに僕は心からの感謝の念を

抱いた。中国に来て不快な思いをしたことは数知れずあって卑屈になっていたが、この時だけは彼の親切がとても嬉しかった。

 

北京の空は上海よりも開けたて広い感じがした。上海は高層ビルの立ち並ぶ街で空が狭く曇っていたから

そう感じていたのだと思う。

 

上海滞在中に出会った北京から上海に下ってきたという外国人に話を聞いたら上海よりも北京は人も街もいいところ

だからきっと気に入るハズだと言われていたが、上海よりはなんとなく良さそうな気だけは到着して直ぐに感じた。

浮浪雲~中国 (二)

・中国で注意すること

上海に到着してから曇っていたり雨が降っていたりと、いい天気には恵まれずモヤモヤした感じが

頭の中にあったが、これが天気のせいなのかそれとも経済成長著しい上海ならでの大気汚染なのかは

分からなかった。

 

上海に到着した翌日からYH(ユースホステル)のある静安寺付近を徒歩で歩き回ることにした。

↑写真の奥に見えるのが高層ビル。手前が取り壊し中、さらに建設中の建物。

 

↑地方から出てきた民工なのだろうか。ダンボールを満載したリヤカーを置いて

 露店でスイカを買って食べ始めた。

 

↑レストランに併設した点心を売る販売所。1つ買って食べたが選んだものが悪かったのか

 バサパサの饅頭に中に漬物のような野菜が入っていた。これは不味かった。

 

広い通りを歩き路地を曲がり、上海の人々の生活の場に足を踏み入れてみたが全ての人は

僕に対して無関心だった。

 

今まで行ったことのある国では僕のような東洋人が人々の生活の場に一歩足を踏み入れようものなら

関心を抱くのは確かだが、どこか冷ややかで鋭い目線を送ってくることがあった。

それは自分達と肌の色が違うことや、服装が違うとか、彼らと明らかに違う点が既にあったからだと

思うのだが、中国では肌の色はもちろん目鼻立ちやヨレタTシャツに短パン、ビーチサンダルという

格好では現地人との違いは無いに等しい。事実、中国人に間違われることは中国を旅している間にも数回あった。

 

路地を歩いていて気づいたことがある。

それは老若男女問わず皆路上で、唾を吐く。

「ガーー・・・・・ペッ」っという唾を吐く音が至るところから聞こえてくる。それもたまにではない、頻繁にである。

最初にその光景を見たときにはビックリしたが、若いお姉ちゃんも同じように唾を吐いているところを見たときには

カルチャーショックだった。道を歩くのも気をつけないと唾を吐きつけられそうである。

 

後日、知り合いになった中国人の女の子に「中国では皆、唾を吐くのか?ひょっとしてあなたもああやって唾を吐くの?」

っと質問してみたら、彼女は笑いながら「今時唾を吐く人なんているの?私見たことないけど。」っと言っていた。

僕の質問に対する彼女の回答に耳を疑ってしまった。道のあちこちで唾を吐いている人間があちこちでいるのに

気づかないなんて信じられなかったが、冷静になって考えたら観光客である僕が敏感に感じているだけなの

かもしれないと思ったが・・・・・いやそんなことない、これに気づかないなんて奇妙だ。

 

さらに、手鼻をかむ。手鼻とは指で鼻の穴の片方を塞いで「フッー」っといきよいよく鼻水を噴射することである。

この手鼻も道を歩いているとよく見かける光景であった。しかも周りを気にしてかんでいるようではなかった。

っと言うことはこれも気をつけていないと吹きかけられるということである。

 

この手鼻をYHでシャワーを浴びている時に試してみたのだが全く上手くいかなかった。

手鼻をかむのにもコツがいるんだなと思ったが、こんなことをするぐらいならティッシュペーパーをつかったほうが

手が汚れないし他人の迷惑にもならないと思うのだが、彼らにはそんなことはお構いなしのようだった。

 

唾吐きと手鼻に注意しながら、路地さらに歩いたがどこに行こうが僕に対してまるで無関心だった。

 

通りにはとにかく多くの人がいて、それぞれに行動している。

歩道は歩行者のものだと思っていてはいけない、原付バイクが通行人の間をすり抜けて走ってくるのである。

歩行者もまた交通ルールなど無視し道路を縦横無尽に歩きまくっていた、まさに無秩序無法地帯という感じだった。

 

車は一応、走行車線を守って走っているが、とにかくクラクションを鳴らしまくる、それも意味も無く。

いや、彼らにとっては意味があるのだろうが、僕にはその意味が全く理解できなかった。

 

それに、道の反対側に渡ろうと信号のない横断歩道で車が停まるのを待っていたが、車が停まってくれることは

100%ありえなかった。なぜなら横断歩道に立って左右をキョロキョロと見渡しただけでクラクションが鳴らされるのである。

しかも横断歩道に人が立っていようがいまいが車のスピードは緩められず、僕自身も何度かひかれそうになったことがあった。

 

では現地の人はどのように渡っているのだろうか?

よく観察してみたが、答えはこうだった。要するに横断歩道など道路に書かれた只の縞模様なだけであって

意味がなく、道路を横断する場合は、車の向ってくるスピードと自分の渡る速度を物理的に頭で計算して

その隙を見計らって渡るということだった。

 

最初のうちはこの横断方法になれずにいたが旅が進むにつれて慣れてきて、旅の後半では

タイミングを上手く計って渡れるようになった。

 

ところが、YHで出会った上海在住の日本人の男性に思わぬことを聞いてしまった。

横断歩道を渡る場合は細心の注意を払ったほうがよいとのことだった。

その理由を彼は丁寧に教えてくれた。

 

彼の職場で田舎から出てきた中国人と数日間、一緒に仕事をしていたが、

その中国人の顔色が日に日に悪くなり、職場の人は心配して病院に行くことを進めていたが、

中国人はそれを断り続け、ついには倒れてしまったとの事。

 

病院に運ばれベッドに寝かされたが処置は全くされずに、放っておかれ、口から大量の血を吐きだして

結局死んでしまったということだった。

 

彼曰く、中国ではお金を持っている人はそれなりの病院へ行って手厚い保護を受けることができるのだが

お金が無ければ医者に行っても処置などはしてもらえず、注射も自分で院内の薬局へ行って注射器を買ってきたものを

医者に渡して打ってもらわなければならないほどだと言う。

 

その中国人は病院に行く金が無いのが分かっていたため自分の体調が悪いのが分かっていても病院には

いけなかったのだと彼は言っていた。

 

そんな中国で交通事故を起こし挽かれようものなら大変なことになる。

事故を起こした時に数千元の現金を持っていたなら何とかなるかもしれないが、お金の持っているのか

いないのか分からなく、得たいのしれない異国人のあなたに親切に救急車を呼ぶなどもってのほかで、

助ける人など一人もなく通行人は一瞥してそのまま素通りするだけだと。

中国では救急車を呼んだ人が救急車代を支払わなければならないため、車に挽かれた外国人を

助けるなんてもってのほかだと。

 

だから道を歩くのも注意をして歩き、日本のように歩行者優先だなんて微塵も考えないことだ、中国人に

とって車は人よりも優先されるべき乗り物で車を持つことの出来る所得のある人間こそが偉いのだと

教えてくれた。

 

さらに、中国人の考え方についても教えてくれた。

中国人は自分や自分の子供や家族をものすごく大切にするがそれ以外は無関心なのだと教えてくれた。

 

彼らの思考回路には世の中が自分を中心に回っていると考えていて、自分が一番大事な存在なのである、

その中心の周辺に家族や友人がいて、それ以外は全くの自分とは無関係無関心な存在である。

 

チャイナリスクという言葉があるが、それもこの類のことが影響していることなのだと彼は教えてくれた。

(チャイナリスクについては以下を参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AF

 

他人に無関心な中国では、とにかく病気や事故に巻き込まれないように気をつけることを教えてくれた。

 

・お気に入りの茶館

上海には幾つか観光地があるのだが、街自体が小さく歴史も浅いため観光地を回るにはそれほど時間が掛からなかった。

その観光地の1つに魯迅記念館と魯迅公園がある。

↑魯迅公園内の路上に書道をする人。インクは水のようだが、ペットボトルに

 筆を突っ込んで専用の筆にしたもので書いていた。達筆だった。

 

↑公園内の至るところでカラオケをやっていた。何を歌っているのか分からないが

 とにかく大音量で公園中に響き渡っていた。

 

僕が当初イメージしていた中国への旅の目的は「癒し」だった。

とにかく中国式庭園のある茶屋で中国茶を飲みながら日本から持っていった文庫本を読んで、

庭を眺めたりすることをしたかった。

それは求めすぎなのかもしれないが、公園でのんびり読書ぐらいは出来るだろうと想定していたが、

そんな僕の夢など、いとも簡単に崩れ去った。

 

魯迅公園へ一歩踏み入れると、公園の緑なんかよりもその人の多さに驚き、園内を歩いたが

とにかく人だらけで特に老人が多かった。

 

園内では釣りやバトミントン、さらにカラオケをしていたりと実に様々なことをしていた。

公園の林の中の歩道を歩いていると賭けマージャンやトランプをしている人を見かけたが

通行人の僕に関心を抱くはずも無く熱中していた。さらに白昼の林の中で若い女と老人が

木の陰でゴソゴソと怪しい動きをしていた。さすがに辺りを気にしていたが見えてしまったものは仕方がない。

 

とにかく百人百様というかそれぞれのことをしていたが、歩きつかれた僕がベンチに座る余裕など全く無かった。

芝生みたいな場所もあったがゴミが散乱して木陰では老人の男が用をたしていたりとても座る気には

なれなかった。

 

人の多さと大音量のカラオケにウンザリして公園でくつろぐことは出来ず余計に疲れてしまった。

諦めて公園内にある魯迅記念館へ行くことにした。

魯迅について僕が知っていることは作家だったということ以外には何も無かったがガイドブックには

日本とゆかりのある人物という紹介がされていた。説明の中国語は全く読めなかったが、中国では

非常に有名で尊敬されている作家なんだなっというのは理解することができた。

↑魯迅公園内にある魯迅記念館。

 

↑廊下の壁一面に展示してある魯迅について書かれた本の数々。

 

魯迅記念館を見てから魯迅公園を出て、近くにある多論路文化名人街という場所に向った。

ここは魯迅公園から程近く土産物屋が並び特に書物に関する物が多かった。

 

↑多論路文化名人街。ここには昔、日本租界や内山書店などがあり魯迅の故居も

 ここにあったという通り。

↑多論路文化名人街にある名人茶芸館。

 

↑名人茶芸館の2階から外を見る。2階には僕以外の客は一人もおらず静かだった。

 

↑ジャスミンティーを注文したらお茶請けのヒマワリの種もセットで出てきた。

 容量が2Lぐらいありそうな巨大な赤いポットはお湯で、茶碗の中に茶葉が入っている。

 飲むときは蓋をずらして茶葉が出てこないように飲むのが正式な飲み方のようだった。

 

この名人茶芸館のベランダの席に座ってお茶を飲みながら通りを眺めていたが、外国人や中国人が

右往左往して、その人の流れをぼんやり見ているだけでなんだか面白かった。

 

中国に来てからまだ数日しか経っていなかったが、僕はこの国の理不尽なシステムに毎日イライラして

些細なことに腹を立て毒づいて疲れていた。

通りを歩いても、どこに行ってもとにかく人だらけでゆっくりと落ち着くということが全く出来なかった。

中国に来ているということもあって、疲れていても時間を惜しんで出歩いていたことも追い討ちをかけていたのかもしれない。

 

しかし、この茶館のベランダ席に座り外を眺めていると、それまでとは明らかに違った時間の流れになり、

疲れが癒されるような気分になっていった。こういう雰囲気を僕は中国に望んでいた。

夕方の街を眺めながら数時間をここで過ごしたが、後にも先にもこの茶館以上の場所を見つけることは

中国を旅行している間に結局、無かった。

 

 

・豫園へ

上海きっての観光地としては「豫園」がある。

日本を発つ前からここには行きたいと思っていた。ガイドブックには中国式の庭園がきれいに写されていたし、

紹介文には「上海きっての・・・」っという文章があったのでそれは素晴らしい庭園があるに違いないと思っていた。

その庭園にはきっと旅人の心を鷲づかみにするような庭園があると思っていた。少なくとも写真からはそれをうかがえた。

 

 

↑豫園近くの地下鉄の駅を降りてから豫園までの道すがらの風景。

華やかなイメージのある上海だが一歩通りを置くに入ったりすると東南アジアの国を思わせる露店や食堂が

立ち並んでいた。

 

豫園とは1559年に着工された明代の役人の私庭を1961年に現在ある形に改修した伝統的中国式庭園である。

↑豫園の入り口。重厚なつくりをしてある。

 

豫園の入場には30元(480円)のチケットを買う必要がある。この入り口の横にチケット売り場があって

窓口は1つしか開いていなかった。僕は列に並び自分の順番を待ったがなかなか列の人が減っていかない。

列の先頭を見ると人だかりが出来ている。なんだろうっと思いながらも自分の順番が来るのを待った。

そして自分の番がやっと来たかと思うと左側から中国人のオッサンが横入りして金を窓口に出して

何食わぬ顔でチケットを買っていた。頭にきてオッサンをにらめつけていたら、その隙を見逃さずか

今度は右側からおばさんがチケットを買っていった。もはや横入りなどを気にしていたらチケットは

いつまでたっても手に入らないと瞬時に悟り、次に横入りしようとしていた人の手を制しながら現金を

窓口に放り込んでやっとチケットを手に入れることが出来た。たった30元のチケットを買うだけでも

この国では油断が出来ないのである。

 

とにかく中国ではどこに行っても横入りは日常茶飯事であった。その度に不快な気分にさせられ、

その後見ることになる素晴らしい庭園だろうが歴史的価値のある物であろうが、純粋に感動することが

出来ず、中国人がこんな偉大なものをどうして作れたのか不思議でしかたなかった。

現代の中国人と昔の中国人は全く違う人種ではなかったのかと思えてしまう。

 

↑上海きっての観光地だけあって人が多いのが分かる。

 

↑壁に書かれた豫園の文字。

 

↑池があり中国式の廊下があり緑がある。こういう風景を見ていると中国に来て

よかったっと思うのだが、この写真を撮るのに、人がいなくなるのを10数分間待ち、

人が少なくなったのを見計らって急いでシャッターを切った。

↑建物全体が落ち着いていて、建物内に入ると木製の調度品が置いてあり、なんだか懐かしいような雰囲気になった。

一つ一つの建物に中国らしい風情があって建物はとても気に入った。

 

↑壁に埋め込まれた彫刻。近くで見ると非常に精巧に彫られていた。

 

↑入場料にはお茶代が含まれており、園内の指定された茶屋でお茶を飲むことが出来た。

お茶を入れてくれたお姉さんは不機嫌というか、やる気がないのか1杯だけ入れて奥に

帰ってしまったが、部屋には僕一人しかいなかったので急須に入ったお茶を自分でチビチビ

飲みながらゆっくり休憩をした。

 

↑豫園を出たところには土産屋が立ち並ぶ。国際都市で一番有名な観光地であるのにもかかわらず

どの店の店員も英語をほとんど話さなかった。ひどいところは全く話さない店もあった。

急速に国際化した街なので外国人対応の人材が揃っていないのか、それとも外国人観光客に中国語で

売付ける気なのか、多分後者正しいと感じた。

 

この後、小籠包で有名な南翔饅頭店に行ったが、長蛇の列で入るのを諦めて隣の店に入って小籠包を

食べたが悲劇的に不味かった。

僕は料理が美味しかろうが不味かろうが、食べ物は残さず食べるのだがこの小籠包は食べれきれなかった。

長蛇の列で待たなければならない理由がその時理解できた。

 

豫園を一周してみたが全体的に小さく箱庭といった感じがした。その箱庭にものすごい数の観光客が

押し寄せているので中々ゆっくり見て回るということが出来なかった。

きっと、人が少なくてゆっくり見て回れるようだったら、もっと大きな感動をうけたと思う場所なだけに

少し残念だった。でも、それは上海きっての観光地に対して望み過ぎることなのかもしれなかった。

浮浪雲~中国 (一)

中国には昔から大きな憧れがあったことは事実でイメージは良好だった。

 

三国志をマンガで読んだり、TV番組の世界遺産で紫禁城のような広大な敷地の宮殿や、万里の長城のように

数千年に及ぶ歴史、それから九塞溝の青い清流、黄山のような水墨画に出てくるような景色、どれをとっても

中国に対する憧れを抱かせるものばかりだった。

さらに中国には長い歴史があり、その歴史の中に日本のルーツがあると信じていた。

中華料理も好きな食べ物で、特に小籠包や麻婆豆腐は大好物である。

 

中国人の友達も大学に入ってから沢山出来た。彼らは本当に明るく希望に満ちている様な目をしていて、

一度仲良くなると本当に親切だった。日本人によくあるような建前のようなものはなく友達として信頼でき

付き合いやすい人ばかりだった。

彼らは日本という異国の地に留学してきて一生懸命勉強して、さらにバイトも一生懸命こなしていた。

彼らを見ていると、日本人はいずれ彼らに追い越されるのではないかと危機感を覚えたこともある。

僕のことを兄と慕ってくれた人もいた。そんな彼らには好意を持たずにはいられなかった。

 

しかし、中国の話をする前に、言っておかなければならないことがある。

 

それは物事の良し悪しの判断基準に対することである。

 

ある物事を判断するにあたり、何を基準に判断するのか。それは自分の主観となるものや価値観が

その物事とどのくらい離れているかによって本人が受ける印象が大きく変わると言うことである。

 

例えば、ある人がこの食べ物は美味しいと思っていても別の人が同じものを食べると不味いと感じることがある。

それは同じものを食べている両人の味に対する感覚や価値観が違うからである。

 

中国に行った人の話を聞く限りでは、中国は中々大変な国であると言われる。中々大変な国という言い回しは

オブラートに包んだ表現で実際は「過酷」や「信じられない」、「最低」という言葉をよく耳にする。

 

その過酷な信じられない最低なことが僕の中国の旅にも付いて回ることではある。

 

断っておかなければならないのは、これから書かれる様々なことについて先述したとおり僕自身の個人的な主観や

価値観からくる物事の良し悪しの判断であるので、このブログを読んでいる方で、もし中国に行ったことのある人が

僕と同じ感想を抱くかと思うとそれは分からない。旅ではその人が旅先で出会った人や経験によってそのイメージは

激変するからである。

 

僕は中国を旅している間とにかく日本とは全く違うシステムに戸惑い苦しめられていた。

ちょっとしたことでフラストレーションが溜まり、疲れていた。それでも旅の後半になってくると慣れてきたこともあるのか

フラストレーションも徐々に溜まらなくなっていた。正確に言うと全てに諦めのようなものを感じていたと言う表現が

正確であると思う。

 

そうして経験した中国の形を正直にブログに書き記したいと思う。

 

上海 2008.8.28-2008.9.3

 

・没有!

韓国の仁川空港から上海の浦東空港までは小型ジェット機で約2時間で到着した。

2時間という短時間で上海へ移動できるので、東アジアの国々が日本にいかに近いかがよく分かった。

 

「上海」と聞くとなんだか華やかなイメージがあって、さぞ空港内も込み合っていると思っていたが、

実際は人もまばらでこざっぱりしていた。

 

空港で現地通貨である「元」に両替し、その「元」のことを現地語では「クワァイ」と呼んでいた。

外国人同士やYHなどでは「RMB」とか「ユエン」と呼んだ方が分かりやすかった。

 

空港から市内へ向うにはタクシーかリニアモーターカー、バスのいずれかの方法で向わなければならないのだが、

当然、貧乏旅行者の僕はバスでの移動である。空港の案内看板に従い市内行きのバス乗り場に移動してバスの

来るのを待っていると数分後には市内行きのバスが到着した。

 

中国では英語が全く通じないと聞いていたが、空港ぐらいまではそんなことは無いだろうと思って英語で

バスの服務員に「乗れますか?」と聞くと、ぶっきらぼうに「没有!(メイヨウ)」と帰ってきた。

 

この「没有!」噂には聞いてきたが早速、出くわしてしまった。

この「没有」の意味は「無い」という意味なのだが、中国を旅する外国人にとってこれほどよく聞く言葉はないと

何かの本には書いてあった。事実この言葉に僕自身も何度も苦しめられた、おぞましい言葉である。

 

バスには空席がある。そして僕が立っている場所は正真正銘の国際空港のバス乗り場であり、「静安寺駅」という

僕が予約したYHの近くに停車するバスのバスストップである。なのに乗れない・・・乗せてくれない。

横に立っていた中国人らしい2人組みはすんなり乗っていった。

「何故?」っと思って立ちすくしていたが、無情にもバスの扉は閉まり走り去ってしまった。

 

納得できないまま、仕方なく次のバスを待つことにした。次のバスには「乗れますか?」などとは聞かずに

無言のまま乗り込んで席に勝手に座ったら、その後服務員がやってきて料金を徴収していったので、

この方法が正しいバスの乗り方だったんだと分かった。

 

バスは上海の街に向かい走り出した。窓越しに上海の街を見ていると高層ビルが乱立していた。

高速道路はフォルクスワーゲンのサンタナという車種が多くを占めていたが日本車や高級外車も多く見られた。

噂に聞く高度経済成長に湧く上海の一面を早くも見せられた気がした。

 

高層ビルの間を走って、バスは目的地の「静安寺駅」に向って進んでいた。

 

上海での宿は既に決めていた。

無計画に出かけてYHに着いたら「没有」なんていわれたら、路頭に迷うことになると危機感を抱いていたので

あらかじめ日本からインターネットで予約しておいた。

 

宿は静安寺駅の近くにあって最近できたばっかりのYHだった。なにより内装はキレイで清潔だったことが

有難かった。中国での最初の宿がアタリだったのでよかったと思ったが、後になって感じたことだがこのYHが

異常なほどにいいYHであることに気が付いた。1泊の価格はドミトリーで60元(960円)だったがこの価格で

この部屋だったら満足だった。

 

重いザックをロッカーへ押し込んでから夕方の上海の街に出かけた。

 

僕は外国の街に到着すると、すぐにバスや電車を利用せずにとりあえず歩きまくる。時には数キロ歩くこともある。

歩くことでその街の大きさや地図上での場所と場所の距離感と所要時間を身体で記憶されるためである。

 

静安寺と言う場所から人民広場まで4、5kmくらいの距離を歩いたが、上海の街は想像よりも小さい街であると感じた。

人民広場に到着することには、すっかり夜になってしまったが上海の街は眩しいぐらいの電光が光っていた。

「今、僕は上海にいる。」っと思うとなんだか鳥肌が立ってきた。

 

上海には中国人の友達がいた。

その友達は僕と同じ大学に留学してきていて、僕のことを兄ちゃんと慕ってくれた女の子だった。

日本語をサークルで教えたりしていたが、いつも悪い日本語を教えてたり、日本語で冗談でケンカをしたりしていた。

日本語で冗談を言ったり出来るということは、彼女の日本語は留学当時から相当できていたが、帰国する時には

日本語での会話は全く問題ないくらいに上達して帰国した。現在、彼女は日中間の留学サポートをする会社に

勤めている。

 

上海に行く前から彼女へ中国の情報をいろいろ質問していたが、その都度、懇切丁寧に色々調べて僕に報告してくれていた。

まず、上海についたので早速連絡を取ってみようと思って公衆電話をさがした。路上に点在していたがコイン式の

公衆電話は殆ど無く、プリペイドカード式の公衆電話のみだった。カードを買うべくカードを売っている店を探したが

結局見つからず結局路上で売られているカードを怪しいと思いながらも購入した。いざそのテレカをもって公衆電話に

入ったのだが公衆電話の受話器の線が壊れていたり、カードを差し込んでも読み込んでくれないなどトラブル続き。

やっとまともに繋がる公衆電話があって友達に連絡すると、連絡した公衆電話から地下鉄で一駅のところへ、

仕事で向っているとのことだったのでその場所で会うことになった。

 

上海での移動は公共交通を使おうと思っていたので、人民広場駅で上海市内を走るバス、地下鉄、タクシー、

フェリーで使えるチャージ式の公共交通ICカードを買うことにした。

 

サービスカウンターへ行き、

「すみません。英語を話せますか?」

っと聞くと明らかに不機嫌そうな態度で

「少しだけっ」

っと帰ってきた。この態度はいったい何なんだ・・・っと思ったがひとまず堪えて、

「公共交通ICカードが欲しいのですがありますか?」

っと聞くと

「今はない。明日の朝もう一度ここに来たら買える。」

とのことだった。

 

この世の中、営業時間内の駅のホームで電車のカードを買うのに明日の朝まで待たないと買えないなんてことが

あるはずがないと思ったが、それ以上何を言っても

「明日の朝来い!」

の一点張り。

この服務員のやる気の無さや無愛想ぶりは中国人の留学生から噂には聞いていたが、

早速、中国のその洗礼を受けてしまった。

 

仕方なくこのカウンターの服務員のところで買うのをあきらめて、別のサービスカウンターへ行くとあっさり買えた。

しかも別のカウンターの服務員は若干親切で、

「上海にあと1週間ほど滞在するのだけど幾らぐらいチャージすればいいと思う?」

っときくとしばらく別の服務員と相談してから、

「50元チャージすればいいと思います。」

っとアドバイスしてくれた。後で気づいたがこのアドバイスは実に正確で上海から北京に移動するその日までで丁度

50元ぐらいだった。

 

なんとかICカードを手に入れて地下鉄に乗ったが、この地下鉄の近代的なことには驚いた。中国はまだまだ発展途上国と

思っていて地下鉄もそれほど近代的ではないと思っていたがプラットホームには液晶画面で次の電車の到着時間が

秒刻みで示され、それと同じ時刻に正確に地下鉄が駅のホームに入ってきた。日本では当たり前のことだが中国の電車は

遅れると聞かされていた僕にとっては驚きだった。でもよくよく考えてみれば地下鉄を運行するのに時間が正確でなかったら

地下鉄が成り立たないとも思った。

 

ともあれ、地下鉄に乗り込んで待ち合わせ場所まで移動することにした。

 

彼女と待ち合わせしていた場所は「新天地」という観光客向けのショッピングモールのようなところで、ヨーロピアンスタイルの

バーやカフェ、レストランなどが立ち並ぶ場所だった。公衆電話を探しながら一方通行の連絡を取りながら何とか出会った。

1年ぶりの再会で、中国で会っているのが少し信じられなかったが元気な姿を見てとても嬉しかった。

 

話したいことは山ほどあるのだが、彼女はまだ仕事中で留学生を引き連れていたのであまり話も出来なかったが、

後日食事を一緒にすることにして別れた。

 

帰りは道はファンピーナンルー駅からシャンシーナンルー駅まで地下鉄に乗り、夜の繁華街を歩いて帰る事にしたが、

夜道を一人で歩いてもあまり危険ではないと感じた。

 

しかし、この判断が後に大きな過ちを犯すことになると言うことをこのときまだ僕は気づいていなかった。

 

・サブカメラ

今回の旅に出る前の丁度1週間前にCanonIXY910ISを買った。

このIXYは軽量コンパクトで広角28mmのレンズを搭載していたので、だいぶ前からほしいと思っていて

夏のバーゲンで電気屋さんで安くなっていたのを24,000円で購入した。

 

韓国でもメインカメラよりもこのIXYの方が持ち運びが便利でメイン機よりもよくつかっていた。

料理やちょっとした時にバッグからメイン機を引っ張り出すよりもポケットから直ぐに出せる

このカメラがとても重宝していた。

 

中国に来てからも3日間はほとんどこのカメラで写真を撮っていた。

その日に食べた中華料理や上海名物の小籠包、街の風景、友達との写真など枚数は200枚は

撮っていたと思う。

 

上海に来て3日後のその日、上海でも有名な夜景スポットのバンド(外灘)と言う場所へ行って夜景を

そのカメラに収めていた。

三脚を据え後のブログに載せようと思って色々なアングルから撮り自分が納得するまで数十枚は撮ったと思う。

一通り撮り終って上海一の繁華街である南京東路をブラブラと歩きながらYHへ帰ろうとしていた。

 

しばらく南京東路を歩いていると、中国人の女が僕の横を一緒に歩き出した。

何だろうと思ったが知らん顔で歩いていると声をかけられた。

 

「どこからきたの?日本人?」

「・・・・・・。」

「どこにいくの?いっしょにバーへ行かない?」

「・・・・・行かない。」

「私の名前はリサ。日本語を勉強しています。ねぇ夕飯を食べに行こうよ。」

「・・・・・。」

「ちょっとゆっくり歩いてよ。ゆっくりゆっくり。」

 

っと、リサという中国人の女はそんな話を勝手にベラベラと横で話していたが、そのうちに女がもう一人現れた。

リサは、途中で現れた彼女は私の友達ですと言って紹介してきたが、その女はスッといなくなった。

 

よく旅行雑誌に書かれているように、日本人相手に甘い言葉で話しかけてきて最終的に身包み剥がされて

痛い目に遭わないように注意が書かれているが、このリサという女がその手の女だということは簡単に想像できた。

 

僕は全く無関心に夜の繁華街のネオンを時々見上げながら足早に歩いていた。

しばらくしてリサは僕が全く興味を示さなかったために、「バカ!」っと行って去っていった。

 

やれやれ、やっと開放されたと思って歩いていると今度は風俗の客引きが引っ付いてきた。

やかましいっと思いながらイライラして歩いていたが、よほど客が引っかからないのか、しつこく誘ってくる。

とにかくシカトして歩いているとやっと諦めたらしくどこかへ去っていた。

 

そんな客引きが次から次へと声を掛けてきたが相手にせず歩いていた。

夕飯を食べてなくお腹が減っていたので、路地をチョット入ったところにある麺屋に立ち寄った。

店の前に据えつけられた鍋から湯気が外にでていてネオンの灯りと重なると昔テレビで見たことのある

中国的な雰囲気をかもし出し食欲をさらにかきたてた。

 

ラーメンが出来上がりサブカメラで撮影しようとしてサブカメラを収めていたポーチに手を掛けた。

 

しかしカメラがポーチに入っていなかった。

 

あれ?っと思ったが短パンのポケットを探ってもバックを探してもどこにもサブカメラがない。

 

おかしい。

 

ポケットにもバッグにもないということは、落としたかそれとも盗まれたのかどちらかである。

もし落としたとしたら落とした音で分かるはずである。

それに最後に撮ったバンドの夜景から今までサブカメラに手を掛けたことはなかった。

 

っと言うことは

 

あっ、やられた。

 

っと思ったが、「でもまさか盗まれるわけない。」っとカメラがない状況を信じられなかったが、もう一度探してみても

やはりどこにも無かった。

 

やはり、そう、盗まれたのだ。

 

冷静になって最後に撮った場所からこの麺屋までのことを思い出してみたが、怪しいと思うのは

あの中国人のリサという女だ!

 

あの女と一緒に歩いていた時にずっと僕の横にへばりついていて、しかも妙に間合いが近かった。

そして友達と言うもう一人の女が現れたときに盗んだカメラをその女に渡してバレないようにしたのではないかと思った。

そして最後に去っていく時に「バカ!」っと言ったその言葉の感じが「してやった」っというような感じがする

言い方をしていたようにも思えた。

 

今まで世界12カ国を回り中国が13番目の国だった。それまで行った国では何かを盗まれたと言うことはたった一度だけ

オーストラリアで車上荒らしにあって財布を盗まれたことだけだった。それ以外の旅では全く何もなかった。

 

旅行ガイドブックに書かれている盗難注意情報などを読んでも心得ぐらいとしか思ってなく、まさか自分が盗難にあうなど

微塵もおもっていなかった。

 

上海に到着してから夜の街を歩いても危険性をあまり感じなかったのと、オーストラリアで遭った以外は盗難には

無縁だったし、ましてや自分がっというものあった。カメラを入れたポーチを不用意に腰にぶら下げていたのもよくなかった。

そうした油断が重なってカメラを盗まれるスキを作ってしまったのだと後悔した。

 

冷静に事実を理解するのにしばらくかかったが、それ以後、カメラを盗まれたという事実が僕の頭の中に重くのしかかっていった。

さらに悔やまれるのはカメラだけを盗まれたのなら諦めが付くが、そのデジカメのデータには旅に出る前に鹿児島で

撮った友達との写真や韓国の写真、上海での数日間の写真などが入っていた。そのため韓国の旅行記やこのブログで

掲載している写真が少ないのである。

カメラはお金を出せば同じものを買うことが出来るが、そのカメラに入っているデータは二度と撮れない写真である。

それがショックで仕方が無かった。

 

盗まれたのがサブカメラでメイン機がまだ手元にあることで、旅の記録をその後も撮れる事が不幸中の幸いと

言うべきか。いずれにしても盗まれたカメラが再び手元に戻ってくることなど100%ありえないことだけは理解できた。

 

今回の旅は日本にいるときからつまづいたが、ここに来てつまづくどころがコケテ立ち上がるところから

始まったような気がする。

 

期待を胸に日本を飛び立ってきたが、前途多難な旅になるのではという不安が心の中を支配してきていた。

 

↑これがバンドの夜景で、この写真は後日撮り直したものである。

 

↑バンド遊歩道。上海位置の観光スポットだけに多くの人でにぎわっていた。

浮浪雲~韓国

ソウル 2008.8.26-2008.8.28

 

飛行機は定刻通り仁川国際空港に到着した。韓国の空はきれいな青色で気持ちがいい天気だった。

入国審査をして到着ゲートを出ると韓国人の友達が待っていてくれた。1週間前に日本で会ったので

久しぶりという気持ちは無かったが、韓国で会えたということが新鮮な感じだった。

 

彼の名前はテジュン。

韓国の高校を卒業後、国内の大学に進学するか日本の大学に進学するか悩んだそうだが、結局彼は日本に

進学して今まで日本には5年住んでいた。現在テジュンと僕は大学院1年生なので同級生という事になる。

普通なら卒業は僕と同じになる予定だったが、韓国には兵役を若者に課していて、ある年齢の間に必ず

徴兵されてしまうということだった。彼も例外ではなく兵役に従事するべく大学を休学して韓国に戻ってきていた。

 

テジュンとは大学のサークルつながりで出会い、彼の真面目で実直という感じの人柄が僕は好きで直ぐに友達になった。

以来、酒を一緒に飲んだり、彼の家に招かれて彼の韓国人の友達と一緒に韓国料理を食べたりとよくしてもらっていた。

僕にとって韓国人の友達は彼が最初であったが、彼の性格から直ぐに親友と呼べる存在になった。

 

テジュンは僕に対してとても礼儀正しく接してくれた。

日本に禅の文化があるように韓国にも儒教の文化がある聞いていたが、彼の年長者に対する接し方を見ていると

日本にある年長者に対する礼儀と同じかもしくはそれ以上で、少し堅いものを感じたがそれは彼自身の性格による

ものだと思った。

 

僕の韓国人に対するイメージは、テレビを見ている限り何かにつけて反日を掲げる国だと思っていたが、

彼は自分が日本にいるためにそれを押し殺しているようだった。時よりそんな一面を僕には見せていたが、

それは僕を信頼していたから言ってくれたのだと思っている。

 

そもそも韓国や後に行く中国、それから他の外国のイメージについて僕が知れることは新聞や雑誌、

テレビを通して得た情報である。それら媒体のフィルターを通して入ってくる情報でしかない。

だからその情報が果たしてその国のことを明確に流しているかというと疑問のような気がする。

 

空港では現地通貨に日本円を換金して、空港に常設してある日本語の観光雑誌を入手した。

さすがに隣国の韓国だけあって日本からの観光客が大勢押し寄せてくるのであろう、日本語の観光雑誌は

充実しており、日本からガイドブックの類を持っていかなくても空港で入手すれば全く問題ないと感じた。

 

空港からソウルへは地下鉄に乗って移動した。途中電車は地上と地下を走ったが、地上を走っている時に見える

車窓からの風景は、日本と殆ど変らない感じがした。窓から見える農家らしき建物は、日本のそれと屋根の形が

若干違うだけで殆ど同じだった。そのほかの違いといえば線路と平行して走っている高速道路の通行車線が

日本とは逆だということぐらいだった。

 

ソウル市内に着いたが、全ての案内はテジュンがしてくれるので僕は彼の後を付いていくだけだった。

地下鉄の駅を降り階段を上がると、そこは景福宮だった。

 

景福宮は李氏朝鮮時代の王宮なのだが、日本による度重なる戦乱で消失され現在の建物は1990年代に

復元されたものだという。

↑景福宮の門

 

景福宮の隣には国立古宮博物館が併設されていて、閉館時間が近づいていたので、まずは博物館から見て回ったが

この日はどういうわけか入館料は無料だった。

 

一通り見て回ったが、展示品の多くは日本のものと似たものが多いと感じた。

日本の文化も韓国の文化ももとはというと中国から伝来してきたものだから同じ様なものが多いのも納得できるが、

韓国は大陸に属しているために日本よりも中国寄りな感じもした。

 

博物館から出て、昼食を食べていなかったため、お腹が減っていた。

景福宮には入らず門の前を素通りしてテジュンが高校生の頃立ち寄ったことがあるという定食屋さんへ行くことにした。

景福宮の直ぐ近くにあって小さい店だったが地元の人もよく利用するらしく、作業着を着た人や警官も店にはいた。

 

メニューを見ても韓国語表記しかしていないので、何が書いてあるのか全く分からない。

大体、僕は韓国語は全く話せない。知っている言葉といえば「アニョハセヨ」と「カムサムハムニダ」ぐらいでしかない。

両方とも日本に留学してきていた韓国人から教えてもらった言葉だがこの2つのみである。

ハングル文字も分かるはずも無く、もっぱら注文や交渉はテジュンに任せっぱなしだった。

 

出てきた料理は石焼ビビンバ、プルコギタッパ(プルコギのせご飯)、ギンパッ(韓国寿司)、キムチと

メッチェという韓国ビール2本。キムチは色々な種類が小皿で5皿出てきて、これはおかわり自由のようだった。

味はもちろん美味しかった。キムチはおかわりしたし、寿司もごま油にまぶした海苔を使っているらしく、良い香りが

して美味しかった。

 

満腹になったところで、また地下鉄に乗り今度は清渓川へ。ここはソウルでも有名な市内を流れる川で、

川沿いの歩道には川から吹き上がる噴水を見るカップルや水浴びをする子供がいて都会の中にある川とは

思えないぐらいよく整備されていた。

 

しばらく歩き見てから日も暮れてきたのでテジュンの家に行くことにした。

テジュンの家はソウル市内から少しはなれた水原市にある。そこまでは電車で1時間半ぐらい行ったところの

ソファという駅で降りタクシーで5分ほど行ったところに家があった。

 

テジュンの家ではお父さんとお母さんとお兄さんが出迎えてくれた。日本人が突然お邪魔してどう対応していいのか

という感じだったが、僕も韓国語を話さないのでどうしていいものやらお互いにオロオロしていた。

 

とにかく居間に通されてお父さんに挨拶したのだが、韓国の礼儀を全くもって勉強していないのでどう接していいのか

分からないままだった。写真を見せたらきっと打ち解けると思って今日撮った写真を見せながら身振り手振りで

雑談をしたら問題は全く無かった。

 

変に身構えていたのは僕の方だった。

 

しばらくして、テジュンと家の近くにある大きな公園を散歩したが、夜の10時を過ぎているというのに

公園ではランニングをする人や公園に設置してあるウェイト機械を使ってトレーニングする人やら

芝生でのんびりしている人、酒を飲んでいる人など様々だった。なんか楽しそうな感じがした。

テジュンは中学生、高校生の頃に勉強の後、ここでよく筋トレをしていたらしく懐かしがっていた。

 

この公園の光景を見ていると、韓国の人って楽しんでるな~っと感じた。

 

公園内にある大きな池を一回りしてから家に戻り、就寝。

朝早く鹿児島を出てきたこともあり移動で疲れて布団に入るなり直ぐに寝てしまった。

 

翌朝は家で家族揃って朝食を食べKBSという韓国のニュースを見ながら食事をしたが、KBSで何を話しているのか

全く分からず映像だけを見ていた。時折、お父さんとお母さんが話しかけてくれた言葉をテジュンが日本語で訳してくれた。

料理の説明とか味は美味しいかとか、おかわりしなさいとか、僕のことを自分の息子のように扱ってくれてとても嬉しかったが

なんだか少し照れくさかった。

 

朝食を食べ終わり外に出ると気持ちの良い青空が広がっていた。本当に気持ちが良い。

バスに乗り「華城」という世界文化遺産に登録されているお城を見に行った。

↑華城の長安門

 

華城は日本の城とは明らかに違うつくりで、中国様式を真似たつくりになっているように感じた。

それから都市計画上仕方がなかったのかもしれなが、長安門の横に城壁の一部をくりぬいてトンネルを通して

道路をつけていた跡があったのがなんだか残念な気がした。

 

この華城は地元の人は無料で、観光客は有料のようでチケットセンターがありそこでチケットを購入しての入場だった。

とは言っても別にチケットをチェックして入場するといったような場所ではなかったので、別にチケットを買わなくても

良かったような気が後でした。

 

華城の城壁は周囲5.5Kmで、その城壁沿いに2人で歩いた。

↑華城の城壁

 

城壁の周りでは芝生の上に老人が集まり、将棋のようなものをやったり酒を飲んでいたりとゆっくり過ごしていた。

この城壁の写真は平坦だったが、この先に行くと登りになり結構な登りになっていて大変だった。

頂上から街を見下ろすと、中心部から郊外に向けて建設中のマンションが多く見られた。郊外もさらに遠くを見ると

山があり緑が映えてとてもキレイな街だという印象を受けた。この街はいいなっと内心そう思った。

テジュンもやはり自分が育った街なのでこの街が好きらしく、自分がもし結婚して子供を育てるとしたらこの街が

いいと言っていた。僕も自分の田舎が好きだがテジュンほどの思い入れがあるといえば疑問かもしれない。

だから、テジュンのように自分の街をそんな風に思えるのが少し羨ましく感じた。

 

しばらく歩き、八達門というところで城壁を降り、そのにある商店街へ寄った。

肉や魚、野菜や香辛料が並べられていた。

↑唐辛子を城壁の横の芝生一面に干している。

 

商店街で果物屋があったので立ち寄ってリンゴの値段を聞いてみたいと唐突に思いテジュンに聞いてもらうと

店主が僕に韓国人なのか?と聞いてきた。僕は日本人だと言ってテジュンに通訳してもらうと、すこし笑いながら

何かを僕に言って店の奥に行ってしまった。その時は、何なのかよく分からずに僕は店を離れたが、その後テジュン

から話を聞くと「日本人に売る果物はない。」と言っていたと告げられた。テジュンは反日というのは特に中年の人に

あるもので、あまり気にする必要はないと言っていたが、「反日」というものは韓国国民中に根強くあるのだと実感させられた。

 

また、しばらく歩いたが、この華城の内側はとても広い。

水原行宮というところに付いた。

↑水原行宮入り口

 

ここは韓国ドラマ「チャングムの誓い」のロケ地だった。僕はそのドラマというか韓国ドラマを全く見たことがないので

この場所に来ても何も感じることは無かったが、きっとドラマを見ていた人がここを訪れたら感動するだとうと思った。

 

↑撮影風景を展示した写真

 

水原行宮を出て商店街を抜けると水門があり、ここは華城でも有名な場所のようだった。

水門の上の建物は板張りになっていてそこでは地元の人達がくつろいでいた。

僕たちも同じようにしばらくその場にいて川の流れや車や人の流れを見ていた。

↑華城水門

 

歩きつかれてお腹も減ってきたので水門近くの韓国料理屋へ寄った。

↑煮えたぎるスンデクッパ

 

このスンデクッパは豚の内臓が入った料理だがとても美味しかった。好みで唐辛子の粉末を入れて

食べるようだが僕はそのまま食べた。キムチや生唐辛子、おかわり自由のご飯が付いて、5000ウォンなので

日本円で500円。

 

韓国の料理は何を食べても本当に美味しい。いつも思うのだが食べ物が美味しい国は旅行していても楽しい。

 

遅い昼食を食べ終わり残りの華城を散策した後、バスに乗り昨夜行った公園へ夕涼みに行った。

そこではやはり住民が思い思いの楽しみ方をしていた。

↑テジュンの家の近くあった公園 池はかなり大きく東京上野の不忍池よりも大きいと思う。

 

テジュンはやはりこの公園に思い入れがあるようで、昔の話を僕によくしてくれた。

彼は子供の頃、ここであった思い出や高校時代に夜遅くまで学校で勉強して帰り道にここであったことなどを

当時を懐かしみながら一つ一つかみ締めるように話をしてくれた。

 

僕はそんな彼を見てなんだか申し訳ない気持ちになっていた。

 

それは、彼があと1週間後に兵役に行くこということと、それが日本から帰国して2週間後にであるということだった。

 

長く日本に暮らし、時には帰国することもあっただろうが、親元を離れ異国の地で暮らすことの大変さは

僕にも経験が少しあるので分かっていた。日本での生活が5年と長く、その間の彼の苦労と両親に会えなかったという

寂しさを考えると、彼が日本から帰国して兵役に行く前の家族と過ごす貴重な時間を、僕が来ることで

奪ってしまったような気がしてならなかった。

 

僕には兵役がない。

 

だから兵役に行くという事が僕にとっての何に相当するのかは見当がつかない。「大変だろう」という簡単な言葉では

とうてい片付けられないものがあることだけは分かっていた。

だが、これが韓国という国家に所属する人に義務化されたものであり、日本と根本的に違う国家の方向性というものが

あるのだということを考えさせられた。

 

彼の兵役は陸軍に所属して2年数ヶ月に及ぶという。

僕が彼のためにできることといえば、彼の無事と兵役の最中に戦争が起こらないこと祈るだけなのかもしれない。

 

その後、僕たちは街に繰り出し酒を飲んだ。彼のお兄さんも一緒に。

僕たち3人の共通語は英語しかなかったのでお互いに知っている英語で会話をしたが、お互いに理解しようと

しているために話はおおいに盛り上がった。酒もビールにマッコリという地酒、つまみは当然、韓国料理。

先ほども書いたが、韓国の食べ物は何を食べても美味しいと言うのが僕の感想だ。

これには韓国に行ったことのある人なら共感できるのではないだろうか。

 

酒もすすみ、店を出て繁華街をブラブラ歩く、歩いている人も日本人と似ている。街並みも日本とそっくりである。

違うことと言えば看板の文字が韓国語で表記されているぐらいだろう。

 

酒を飲んでいるせいなのだろうが、今、韓国にいる自分が嬉しくて可笑しくてたまらなくなってきた。

 

「僕はまた外国にいる。」

 

その事実を再確認し、確信したことで日本の生活から自分が解放された気がした。

社会にいまだ出ず、日本で学生生活してストレスなど無縁だと思っていたが、実際は気づかないうちに

少しずつストレスを受けていたのだとその瞬間に思った。

 

僕たちは繁華街を歩き勢いあまって18歳未満進入禁止の路地に入っていった。

そこは売春宿が立ち並ぶ通りだった。左右の店には背が高くスタイルのよい女の人が立ち並んで通りを歩いていると

声をかけられるが、日本人だというとみんな嫌な顔をしていた。

 

何がどう嫌なのかは分からないが、日本人を嫌っている様子だけはよくわかった。

 

通りを冷やかして歩いて、今度は屋台で酒を飲みなおした。

3人とも、したたかに飲んで酔っ払っていた。

屋台で山盛りの茹でた貝を食べながらビールを飲みたわいもない話をしていた。

 

あっという間に12時近くになり、タクシーで家へ戻ろうとしたらタクシーに乗車拒否された。

理由は「ここから近いから。」だということだった。

文句の1つでも言ってやろうと運転手に近づこうとしたら2人に止められてしまった。

別のタクシーで家に向かい、コンビニでビールを買いまた公園へ。

 

公園の小屋でビールを飲みながら韓国最後の夜を3人で飲み明かそうとしたが、3人とも眠くなってきたので

あえなく帰宅。久々にこんなに美味しい酒を飲んだと思った。韓国の旅はの感想は総じて良く、それはテジュンと言う

友人がいたおかげでもあるが、また来たいと思った。

 

それにこの国は住めるとも思った。

 

今まで行ったことのある国には、「この国には住める。」と思えるような自分にあったその国のよいところや

好きなところがあった。この国もその例に漏れず、景色や食べ物、街並みなどを僕は好きになることが出来た。

 

翌日は上海への移動で昼前には仁川空港へ行かないと行かなかったので朝食を食べた後、バスで空港に

向うことになった。

 

お父さんがバス停まで来るまで送ってくれるので、家の前でお母さんとお兄さんに別れの挨拶をしたかったが

現地語でなんと言っていいのか分からず、ただただ頭を下げて両手で握手するだけだった。

 

お父さんは家を出る前に僕にこう言った。

 

「若いうちに外国を知ることはいいことだ。私も若い頃、イラクにいたことがあるんだ。イランイラク戦争が始まって

 引き上げてきたが、いい経験を沢山したよ。」

 

っと言ってくれた。

 

福岡空港でもおばさんに同じようなことを言われたことを思い出した。

いつの時代も海外に行くことは自分を成長させるよい経験場であるということを人生の大先輩からまた教えられた。

 

「僕は今、自分を成長させられる場所である外国にいるんだ。僕は色々な人と出会い色々な経験をして

 自分をもっと成長させるんだ。」

 

と自分に言い聞かせて家を出た。

 

バス停に着くとテジュンはバスに乗るまで僕を見送ってくれた。

彼と彼の家族から受けた心からの親切と、彼のこれからの兵役のことを考えると胸の奥が締め付けられるような思いがした。

バスに乗り一人になりそれを思ったときに、目に涙が溜まったが頬を流れ出す前に手でぬぐった。

 

2年数ヵ月後に必ず彼と再会して、昨日のように酒を飲んでくだらない話をして飲み明かすことを楽しみに、

ただただ僕は彼の無事を祈るだけだった。

 

初めての韓国旅行でこんなに心に残るいい時間を過ごせたことが幸せだった。

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